戦後81年、孤児が見つめた戦争と空腹 12歳で大阪駅に寝泊まりした角エミコさん
戦後81年、孤児が見つめた戦争と空腹 角エミコさん

終戦から間もない1945年秋、大阪駅では身寄りのない子どもたちや大人が新聞紙にくるまって夜を明かしていた。12歳だった角エミコさん(93)(松江市)も駅の待合室で雑魚寝に加わった。水色のワンピースは汚れでくすみ、着替えはなかった。

空腹と孤独の日々

度重なる空襲で大阪の市街地は焼け野原となっていたが、駅舎は残っていた。疎開先から引き揚げてきた人や、地方へコメを買い出しに行く人でごった返す駅も、夜になると静かだった。「ここなら、屋根があって雨風をしのげる」と思った。

とにかく、空腹で仕方ない。「今日をどうやって生きていこうかと。それしか考えられなかった」。頼れる人も金もなく、ひとりぼっちだった。

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当時、全国には角さんのような孤児が少なくとも12万人いた。戦後81年がたち、戦地へ赴いた世代から証言を得ることが難しくなる中、戦争に翻弄されながらも生き抜いた孤児たちを訪ね、証言を聞いた。

靴磨きと闇たばこで生計

角さんは大阪駅で寝泊まりを始めたが、空腹をしのぐ方法を考えていた。自分がどこで生まれたのか知らず、物心ついた時には養父母に育てられていた。山口県宇部市に住んでいた時、養父に召集令状が届き、45年、広島市にある養父の親類宅へ預けられた。働き手として扱われ、布団の綿入れをさせられた。

8月6日、原爆に遭った。ほぼ無傷だったが、生活が困窮する中で、食費を稼ぐように言われた。駅前で海藻そうめんを売る姿を同級生に見られ、からかわれた。恥ずかしくて居づらくなり、15日の終戦後まもなく、1人で列車に乗り、大阪駅にたどり着いた。

新修大阪市史によると、終戦直後の大阪駅周辺には数千人がたむろし、子どもも多かった。栄養失調で命を落とす人も相次いだ。

ある日、同じように駅で寝ていた「おばさん」から靴磨きの方法を教わった。「洋服を着たおじさんは革靴をはいている。『磨かれませんか』と声をかけなさい」。木製の台と布きれを手渡され、駅の外に座って日に数人の靴を磨いた。稼いだ小銭を手に、駅前に広がっていた闇市の屋台へ行き、1日1杯の親子丼で命をつないだ。

おばさんは闇たばこを売ることも教えてくれた。たばこは当時、国が製造・販売を担っていたが、安価な私製が出回っていた。「税務署の人が調べに来ているのに『たばこどうですか』と声をかけたりして。全部持っていかれました」

孤児施設での生活

今思うと、みんな生きることに必死だったのだと思う。財布を盗む「スリ」で生計を立てる男の子や、唇を真っ赤に描き、米兵と肩を組む女の人……。次第に、この生活から抜け出したいと思うようになった。

3か月が過ぎた頃だろうか、交番で「働き口を探している」と相談した。すると、トラックの荷台に載せられた。2時間ほど走って着いたのは、大阪市の南部にあったカトリック系の孤児施設だった。「黒い頭巾をかぶったシスターを初めて見て、魔女に思えて怖かったんです」

孤児施設で、幼児の世話係や炊事場の担当として約2年間働いた。食事と、安心して寝る場所があるありがたさが身にしみた。

その後も、教員宅や農家での住み込みなど様々な職に就いた。18歳ぐらいの頃、松江で開業するという医師から「お手伝いとしてきて」と声をかけられた。

看護師への道

「手に職をつけられる」と思った。看護学校で資格を取ろうと考えたが、小中学校を卒業していないことを理由に入学を拒否された。毎日、土下座して頼み込み、認めてもらった。

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思いがけない知らせもあった。入学のため戸籍を取り寄せると、兄姉がいることが判明。再会を果たし、所在不明だった実の両親について知ることができた。父親は自身が生まれた年に、母親は2歳の頃に亡くなり、自分は養女に出されたという。「ずっと一人ぼっちだと思っていたので、心がすっと軽くなった」

松江市の医院で働きながら学校に通う生活を2年続け、20歳で准看護師の免許を取得。「自分の力で生きていける」と心が弾んだ。

語り部としての使命

その後、結婚し、複数の病院で働いた。今では7人の孫と9人のひ孫に恵まれる。20年ほど前から、小学校や地域の集まりで経験を話すようになった。

近所で私設図書室「書嘉庵」を運営し、角さんの体験を冊子にまとめた小林京子さん(67)は「『戦争はやめれ』という角さんの思いが多くの人に伝わってほしい」と話す。

角さんが伝えるのは、家があってご飯が食べられるという当たり前の生活が、どれだけ幸せかということだ。「悲劇を忘れてしまえば、また戦争が起きる。自分のような経験をする子どもを見たくない」

角さんへの取材は計10時間以上に及んだ。戦争体験者が減る中、「93歳まで生かされているのは、話しなさいということかもしれない」。そう語る姿に、30歳の記者は、角さんから後世に伝える役割を託されていると感じ、背筋が伸びた。

全国の孤児の実態

国が1948年に行った「全国孤児一斉調査」によると、アメリカの統治下にあった沖縄県を除き、孤児は約12万3500人に上る。親の病死などで孤児になった「一般孤児」が大半で、戦地や空襲で親を亡くした「戦災孤児」や終戦後に引き揚げてきた孤児もいた。

都道府県別では被爆地である広島が最も多く、兵庫、東京、京都、愛知、大阪と続く。多くは祖父母や親戚に預けられており、施設に入ったのは約1万2000人。帰る先を失って駅や路上での生活を余儀なくされた「浮浪児」は調査の対象には含まれておらず、実際の孤児の数はさらに多かったとみられる。