中大・駿河台キャンパス閉校の不運な顛末:国の規制とオイルショックで売却
中大駿河台キャンパス閉校の不運な顛末

多摩移転をめぐる計画の変遷

中央大学の駿河台キャンパスは、多摩への移転計画が浮上してから様々な紆余曲折を経て、最終的に売却されることとなった。1960年に多摩校地を初めて取得し、1964年からその活用について検討が始まった。1966年には教養課程を多摩に移転する計画が決定されたが、その後の中大紛争の激化により審議は中断。1970年には都市計画により開発のリミットが5年後に設定され、移転計画の審議が再開された。

1973年、文系学部の昼間部を多摩に移転し、夜間部は駿河台に残すこと、理工学部は後楽園に残すことが決定された。しかし、1975年に多摩キャンパスが着工された後、1976年には大学設置基準上、夜間部を駿河台に残すのは不可能と結論づけられ、夜間部も多摩移転が決定。さらに、オイルショックの影響で建設費が跳ね上がり、国土法により売却予定の物件が予定価格を大幅に下回ることになり、駿河台キャンパスを売却せざるを得なくなった。

駿河台校舎よ、さようなら

多摩移転から2年後の1980年3月22日、東京に名残りの雪が降る中、駿河台校舎の閉校祭が開催された。最後を締めくくる提灯行列には3000人以上が参列し、高張提灯、横断幕、校旗、応援団旗、オープンカー14台を先頭に正門から出発。放送車からは「長い間、大変お世話になりました」と感謝の言葉が繰り返され、参加者は雪の中を校歌、応援歌、中大節を歌いながら歩いた。

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提灯行列に参加した学員の市橋千鶴子氏は、『学員時報』154号(1980年4月10日)でその日を振り返り、「大学発展の段階とはいいながら、大きな灯がまた一つ消えてゆく悲しみにやりきれなさを覚え、私は雪のなかに、何か激しく絶叫したい衝動を覚えるのであった。再び目見えることのない私たちの駿河台校舎よ。さようなら!!」と記している。駿河台の売却には多くの関係者、特に学員から反対意見があったといい、この叫びは学員の哀切を代弁している。

最終的に駿河台校地は大正海上火災保険(現:三井住友海上)に買収され、現在も本社ビル(駿河台ビル本館・新館)として使用されている。

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