わずか2年前の話だ。シベリアに抑留された父が遺骨になって、石巻市前谷地の二階堂芳正さん(82)の手元に戻ってきた。81年前に出征し、軍服姿の写真でしか知らない父。「何で俺たちを置いていったのか」と、心の中で何度も問いかけた父。帰ってきてくれたと、ただうれしかった。
記憶にない父
「何事にも一生懸命に取り組む人だった」。母からそう聞いたことがあるが、二階堂さんに父質郎さんの記憶はない。1931年に軍に入隊し、二階堂さんが1歳の誕生日を迎えた45年1月に、3度目の出征で満州(現中国東北部)に渡った。
出征前、質郎さんが「戦争のために生まれてきたみたいだ」と漏らしていたと母から伝えられた。「二度と日本には戻って来られないだろう」とも言っていたという。
質郎さんはシベリアに抑留され、強制労働中に病気となり、46年に虫垂炎で亡くなった。36歳だった。二階堂さんは幼い頃、遺骨がないまま、父の葬式をしたことを覚えている。
学校で友人と父親の話になると、苦しくなった。「元気で帰ってきてくれたら、抱き合えたのに」。やるせない気持ちで人生を過ごしてきた。若かりし頃の軍服姿の父の写真に、「何でおふくろと子どもを置いていってしまったの」と、何度も語りかけた。
痕跡追って訪ソ
父の痕跡を追って、シベリアの地を踏んだこともある。1982年、抑留経験者らで作る全国抑留者補償協議会に誘われ、シベリアに墓参りに向かった。どこに眠っているかは分からない。それでも、弔いがしたかった。
ロシア極東ハバロフスクの日本人墓地を訪問。父の名前がないか探してみたが見つからない。一角に法名を書いた手製の卒塔婆を立て、持参したササニシキを供え、手を合わせた。
ソ連の許可を得て、墓地の横に「平和風鈴 之(の) 塔」を設置した。去り際に「夕焼小焼」の歌を合唱した。「お手々つないでみな帰ろう」。涙が出て、歌詞の続きが歌えなかった。
厚労省から連絡
それから40年ほどたち、信じられない連絡が厚生労働省から来た。遺骨収集派遣団が集めた骨がDNA鑑定の結果、質郎さんの遺骨だと判明したというのだ。「『帰ってきて』という願いが通じた。奇跡だ」
質郎さんはハバロフスクの北に位置するゴーリンの野戦病院に入院し、病院の墓地に埋葬されていた。全身の骨がきれいに残っていたという。
2024年9月に父の遺骨を手にして、重みを実感した。「おやじが近くにいるような感じがする。帰るべきところに帰った気がして、安心した」
息子や孫が自宅に遊びに来るたび、遺骨収集の写真などを見せ、「戦後、おじいさんはシベリアで苦労して亡くなったんだ」と、質郎さんの話を聞かせる。今年は初めて地元住民の前で体験を語った。「こんなに惨めで不幸なことはない。次の世代が同じ思いをしなくていいように」。そんな思いを込めて。
推計3万柱超 現地残る
終戦間近の1945年8月9日にソ連が参戦し、満州や樺太にいた旧日本兵らをシベリアなどに抑留した。厚労省の推計では、抑留者は約57万5000人。約47万3000人が帰還したが、約5万5000人が死亡した。身元が特定された死者は4万人あまりで、うち宮城県出身者は800人以上という。
抑留期間は長い場合で10年以上に及び、ハバロフスクから西方のカザフスタンやウクライナに連行された人もいた。強制収容所では飢えと寒さによる過酷な環境の中、森林伐採や鉄道建設といった重労働を課されたとされる。
91年にソ連と結んだ協定に基づき、死亡者名簿の引き渡しが始まった。
しかし、新型コロナウイルスとウクライナ侵略の影響で、ロシアなどでの現地調査は難航している。3万柱を超えると推計される現地に残る遺骨の収集もロシア国内では中断している。



