中国残留邦人2世、言葉の壁で今も苦しい生活 長崎の男性が語る
中国残留邦人2世、言葉の壁で今も苦しい生活 長崎の男性が語る

終戦前後の混乱で中国に取り残された中国残留邦人の2世が、いまだに不自由な生活を強いられている。「中国人」として生まれ育った後に日本に移住したため、言葉の壁が立ちはだかっているからだ。長崎市に住む宮崎一也さん(73)もその一人。その話からは、帰国後の暮らしぶりや2世の課題が浮かび上がる。

母に頼まれ45歳で長崎へ

長崎市内にある県営住宅の一室。中国の飾り物が掛けられている部屋に宮崎さんは妻・智子さん(63)と暮らしている。宮崎さんは日本語をほとんど話せず、中国出身の智子さんも片言の日本語しかしゃべることができない。宮崎さんは「2世が直面しているのは言語の問題。日本語を話せなくてうつになった人もいる」と話す。

宮崎さんの母・菊子さんは3歳頃、満州(現中国東北部)の開拓団として、日本から移った。一家8人ほどで暮らしていたが、戦況が悪化。旧ソ連の侵攻で一家は住まいを追われ、その間、菊子さんは帰国することなく現地の中国人に半ば身売りするような形で引き取られたという。

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「日本人との差別感じる」

菊子さんは養父母の元で育った。日本人であることがわかると差別を受けるため、現地では「王秀蘭(おうしゅうらん)」と名乗っていた。その後、中国人の男性と結婚。宮崎さんを含め計5人の子どもをもうけた。

1972年の日中国交正常化後、菊子さんは94年頃に親類を頼り、長崎へ帰国を果たした。宮崎さんは大学卒業後、現地で警察官をしており、結婚もしていた。だが菊子さんに「日本へ帰ってきてほしい」と頼まれたため、98年に長崎へ帰国した。45歳の時だった。

日本での生活は苦難の連続だった。国費ではなく自費で日本へ来た宮崎さんは、就労支援や言語を学ぶ機会がなかった。塗装工の仕事についたものの、給料は他の従業員より少なかった。智子さんも働いていたが、同様の厳しい環境を強いられた。

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