「ソ連兵がいつ来るか分からない。皆家の鍵を閉め、外出もしなかった」。気仙沼市太田の荒木英夫さん(95)の脳裏には、日本が太平洋戦争で敗戦した直後の故郷、中国・大連の光景が今も鮮明に焼き付いている。若い女性を連れ去るソ連兵、日本人に石を投げる中国人――。幼い心に刻まれた。
王道楽土の違和感
荒木さんは1931年、南満州鉄道(満鉄)の職員だった父の章さんと母の倭文子(しずこ)さんとの間に大連で生まれた。当初は兄の郁夫さんと家族4人で暮らしていたが、父は北京に拠点を置く国策会社に転職し、3人暮らしになった。
大連は美しい港町だった。満州(現中国東北部)の玄関口として栄え、西洋建築やアカシアの木が並び、路面電車が走った。桜がきれいな海沿いの公園もあり、そこのホテルで家族で宿泊した。学校では給食がいつも出され、米のご飯が出た。
街には中国人街があり、肉体労働者として働く人が多かった。共存していたが、小学生の時に街を歩いていると、広告塔の作業現場で現場監督の日本人が中国人のペンキ職人を殴るのを見た。その広告には「日満協力して王道楽土を作ろう」の文字。「協力していないじゃないか」。違和感を覚えた。
玉音放送と楽隊
太平洋戦争まっただ中の44年、旧制中学に入った。授業は少なく、軍事教練に明け暮れた。「手りゅう弾を持って(敵に)ぶつかれ」。そう教えられた。荒木さんら子どもらが消火用のため池を街中に造り、海岸には敵の上陸に備えて潜む穴も掘った。兄は航空兵を目指す飛行予科練習生として海軍に入った。
45年8月9日、ソビエト連邦の侵攻が始まった。「連邦軍が攻め込んで来ました」。そう告げるラジオの音声が耳に残る。学校では実弾射撃訓練も始まったが、まもなく日本が戦争で負けたことを告げる玉音放送を校庭で聞いた。
大連の中国人は勝利を喜び、楽隊を組んで街を練り歩いた。家を取られた日本人もおり、荒木さん宅には2家族が身を寄せた。進駐したソ連兵は、荒木さん宅から腕時計や着物を持ち去っていった。街では若い女性が連れ去られ、制止しようとして銃撃された人もいた。停電が多く家はいつも薄暗い。中学校でロシア語の授業が始まった。
家財を売って暮らし、冬は寒さをしのぐため、小さなブリキのストーブで、家にあった本を燃やした。父の蔵書に絵本に百科事典……。「思い出が消えるようで嫌だった」。新聞もラジオも途絶え、日本がどうなっているかも分からない。
故郷を見ずに
山西省の炭鉱の幹部に転じていた父からは終戦の2か月後、「中国にしばらく残る」と手紙が来たが、以降、連絡が途絶えた。兄の消息も不明だった。
家族がバラバラな中、47年2月、母親と2人で引き揚げた。荷物が制限される中、リュックサックに布団と衣類を詰めた。待機場所の倉庫から波止場に向かう途中、行列の両脇に群がった中国人が「帰ってくるな」と日本人に石を投げつけていた。
引き揚げ船は古い貨客船。暗い船室に大勢が押し込められた。「お母さん死んじゃった」と話す小さな子どももいた。せき立てられるように船内に入ったため、去り際に大連の街並みを見ることはできなかった。
約2日半で長崎県の佐世保市に到着。汽車を乗り継ぎ、10日ほどで父の故郷の気仙沼に着いた。初めての土地。気仙沼駅前には、民家が点在するだけで方言が分からず不安も覚えたが「ソ連人がおらず、安心した」と語る。
届いた父の手帳
伯父の家に身を寄せると、兄がすでに復員していることを知った。その年の夏、中国に残っていた父が肺の病気の治療中に亡くなったと連絡が届いた。
「もう人に頼れない」。悲しみとともに責任感が芽生えた。新聞配達で稼いで高校に通い卒業後は気仙沼町役場(当時)に就職。町の図書館の職員となり、館長を務めて退職した。
荒木さんは1996年、父の最期の地である中国大同市を訪れ、父をしのんだ。給油で機体は大連の空港を経由したが、「思い出の強い場所。中国のものとなった姿を見たくない」と感じたという。
手元には、大連で撮影した家族写真と、父親の遺骨とともに送られてきた手帳がある。46年12月31日付にはこう書かれていた。「一家流離手ノ施シヨウモ無キ現下ノ境遇トシテハ苦悩裡ニ年暮ヲ迎ヘる自分ノ運命ヲ悲シマズニハ居レナイ」



