終戦直後の大阪駅近くに、短期間だけ存在した「桜橋ガーデン」という子供の楽園があった。高さ30メートルの飛行塔を備え、焼け跡の中で子供たちを笑顔にした場所だ。産経新聞が昭和17年に第1号を発行して以来、3万号到達を目前に控える中、その歴史の一コマに、戦後の焼け跡で「子供の楽園」を運営していた時期があった。
執念の調査で全貌が明らかに
「昭和25年ごろに発行された大阪駅周辺の地図を見る機会があり、そこに『桜橋ガーデン』とあったんです。大阪駅に近い桜橋交差点のそばに、そこそこの広さ。なのに検索しても情報が出てこない。それが調べるようになったきっかけです」と話すのは、近代大阪資料コレクターのヲガクズさん。調べたことを漫画にしてSNSで発信している。
なじみの居酒屋で幼いころ桜橋ガーデンで遊んだ人に遭遇したり、サンケイホール30周年記念誌の中に記述を発見したり、骨董市で園内の催しのパンフレットを捜し出したりと、徐々に実態に迫っていった。国立国会図書館でマイクロフィルムと格闘し、終戦直後の焼け跡に誕生した子供の楽園・桜橋ガーデンの存在を確認した。
運営は産経新聞厚生文化事業団の前身、大阪新聞厚生事業団。本格開場となった昭和24年4月4日付の産経新聞には「大阪のど真ん中に建設されたただ一の理想的子供楽園」と記されている。
背景に児童福祉法の公布
桜橋ガーデンがあった場所には戦前、静観楼という料亭があり、菜の花畑越しに汽車を眺めながら酒宴を楽しむのが人気だった。現在はサンケイホールブリーゼを併設した複合施設ブリーゼタワーが建つが、昭和27年から平成17年までは産経新聞大阪本社が社屋を構えていた。竣工時は周りに目立った建物がなく、3キロほど離れた天満橋からも見えたらしい。「あの立派なビルにお勤めなら…と良い縁談話が来た」という話も社内で聞かれた。
その社屋ができる前、2年半ほど存在したのが桜橋ガーデンだ。焼け跡にあふれていた戦災孤児や浮浪児を救済・保護する目的で、児童福祉法が公布されたのが昭和22年。桜橋ガーデンの誕生はこうした時代背景が関係しているとみられる。
巨人軍選手による野球教室も
ヲガクズさんによると、桜橋ガーデンの短い歴史は、夜明け前ともいうべき0期、そして1~3期、終焉期に分けられる。
【0期】「桜橋ガーデン」の名が初めて産経新聞に登場するのが昭和23年4月30日付「桜橋に〝緑の園〟」という記事。都市緑化運動の一環として植木即売会が開かれ、盛況だった。
【1期】23年8月11日、開場。北新地の芸妓衆も加わり、5夜連続の納涼盆踊り大会でオープンを祝った。産経の僚紙、大阪新聞に「大櫓を囲んで踊りぬく人々の群れ」といった見出しが躍る。このころは野外ステージがあるくらいだったが、天文観測会、のど自慢大会、社交ダンスなど多彩な催しが開かれた。「巨人軍選手による野球教室や、若き日の上方落語四天王の寄席も行われています」とヲガクズさん。巨人軍は三原脩監督や千葉茂主将、この年本塁打王を分け合った川上哲治と青田昇らが参加した。「新人寄席の夕」と銘打った落語会では、駆け出し時代の桂米朝、桂小春(三代目春団治)、桂あやめ(五代目文枝)、笑福亭光鶴(六代目松鶴)が揃って出演し客を笑わせた。のちに米朝は、この地に建つサンケイホールで定期的に独演会を開くことになる。
【2期】24年4月3日、アトラクションなどを整え、本格開場を迎える。2日付の大阪新聞には「大阪に子供の楽園 子供汽車も走ります 『桜橋ガーデン』愈々三日開場」の見出しで、園内の様子が詳しく報じられた。それによると1300坪の園内には、高さ30メートルの飛行塔はじめ、子供汽車、スクーター、電気自動車、木馬に加えブランコ、シーソー、千人収容の児童会館が並び、噴水池を囲んだ築山があり、100本の桜などが植えられた。産経新聞は4日付で、大阪知事や市長らが参列したオープニング式典の様子を報じている。2期では映画会や音楽会、鉄道模型運転競技会、写生大会、人形劇など数多くの催しが開かれ、名実ともに子供の楽園だった。天才子役といわれた中村メイコの劇団も公演を行った。児童会館は木造で粗末なものだったというが、「永い戦争に疲れ切っていたわれわれ芸能人にとっては、野辺の花以上に美しい心の憩いの場所だった」という上方舞楳茂都流三代目家元、楳茂都陸平の証言が残る。
【3期】25年秋以降、大人向けのイベントが増えていく。映画会では「痴人の愛」が上映された。「芸術祭舞踊大会」も開かれ、日本舞踊を米軍の少将夫人が観劇したといった記事もある。いまだ占領下だった。
【終焉期】26年1月、産経新聞・大阪新聞の本社社屋建築計画が発表された。「確認できる最後のイベントは1月26日で、このあと更地になったのでしょう」とヲガクズさん。3月19日には地鎮祭が執り行われた。
焼け跡に生命力あふれる場所
桜橋ガーデンは2年半ほどで姿を消した。そもそも、新社屋を建てるまでの期間限定だったのかどうかなど、はっきりしたことは分からない。いずれにしろ、焦土と化した大阪都心部に広がる巨大な闇市の隣に、「遊び場のない子供たちに楽しい夢を」というコンセプトで建設された。混沌とした時代に、多くの子供を笑顔にした、生命力にあふれる場所だったのだろう。30メートルを誇った飛行塔からは、復興に向けて徐々に姿を変える力強い街の様子が見えたに違いない。



