終戦後、戦争や病気で親を失った孤児を受け入れる施設が各地にできた。長崎県大村市の児童養護施設「大村子供の家」もその一つで、満州(現中国東北部)や朝鮮半島から佐世保の港(長崎)に引き揚げてきた孤児たちの戦後を支える出発点となった。
135人の引き揚げ孤児を受け入れ
大村子供の家は、終戦翌年の1946年、135人の引き揚げ孤児を受け入れたことから始まる。長崎県佐世保市の引揚援護局で多くの孤児を目の当たりにした坂田眞瑛氏(故人)が創設した。
現施設長の松本幸治さん(44)によると、当時の職員は孤児と寝食を共にした。坂田氏自ら食料確保に奔走し、救援のため世界から日本に届いた「ララ物資」も受け入れた。元職員の手記には「すいとんや梅干し、漬物を子供達とわけあいながら一緒に食べていた」と記されている。松本さんは「身寄りのない子どもたちを悲しませたくないという思いが強かったのだろう」と話す。
引馬さん「優しい保母さんたちに囲まれ、初めて普通の生活」
大村子供の家には、孤児の名前や入所日を記した記録が保管されている。その中に、大阪市住之江区の引馬孝子さん(90)の名前もあった。
引馬さんは取材に、「優しい保母さんたちに囲まれ、初めて普通の生活を送ることができた」と振り返った。
満州で両親を亡くした引馬さんは10歳だった時、同じ家に住んでいた女性に連れられ、引き揚げ船に乗った。9歳と6歳の弟たちも一緒だった。船では何度も汽笛の音が聞こえ、「亡くなった人がいたら、海に沈めて手を合わせる」と教わったことを覚えている。
祖国の地を踏んだ周囲の大人が「日本だ」と歓声をあげるのをよそに、不安が募った。日本は知らない土地だった。「ここはどんなところなんだろう」。
女性とは港で別れた。今思うと、年長の自分が弟たちを守らなければと、必死に手をつないでいたのだろう。数日、港近くで寝泊まりした後、47年3月、弟たちと連れて行かれたのが大村子供の家だった。「安心して寝られる」と思った。
坊主頭で身を守り、学校で友達も
大村子供の家には、入所直後に撮られたとみられる引馬さんの写真が残る。頭巾をかぶっている理由について、引馬さんは「満州では、女の子だと気づかれないよう坊主にしていたの」と明かした。旧ソビエト連邦の兵士から身を守るためだったという。
大村子供の家では、満州では行けなかった学校に通い、友達もできた。保母さんたちが気にかけてくれ、温かい食事がうれしかった。バレーボールをして遊び、夏にはキャンプに連れて行ってもらった。
数年過ごした後、岡山にある父方の実家に引き取られ、経理を学ぶ学校に進学。その後、5年間ほど大村子供の家で事務員を務め、子どもたちの面倒も見た。「自分の人生につながりのある場所で働くことができて、幸せだった」と語る。
20歳代半ばで、大村子供の家の元入所者で、満州から引き揚げた敏男さん(死去)と結婚。東京や大阪の会社で経理を担当した。
生い立ちを人前で語ったことはなかったが、「経験を伝えることが、平和を考えるきっかけになるなら」と記者を迎えてくれた。「引き揚げは大変な経験だったはずだけど、子供の家での生活が楽しかったからか、どうしても思い出せないの」と話す。
大村子供の家は今、様々な理由で親と一緒に暮らすことができない子どもたちの受け皿となっている。
この連載では、孤児として育った4人を紹介したが、事情があって記事にすることができなかった方も含めると、10人以上から話を聞いた。
「少し前なら言えなかった」「もう時効やね」。訪ねると、こうした言葉をこぼしながら、重い口を開き、赤裸々に語ってくれた。戦争体験者の声を直接聞ける機会は確実に減っているが、戦後81年の今だからこそ残せる証言もある。終戦後も戦争に翻弄された人たちへの取材を継続し、思いを届けたいと思った。(おわり。この連載は浅野榛菜が担当しました)
児童養護、戦後に孤児対策として開始
親元で育てられない子どもたちを社会で養育する児童養護の取り組みは戦後、孤児の対策として始まった。1947年に児童福祉法が制定され、国が養護施設として制度化した。
関西大の土屋敦教授(福祉社会学)によると、家庭で育てるのが当たり前だった時代に子どもたちを救った施設がある一方、その日の食事すらまともに提供できず、子どもが逃げ出す施設もあった。土屋教授は「時代に応じて姿を変えながら、社会で子どもを育てる必要性が認識されていった」と話す。



