本能寺の変直後、噂で味方に討たれた織田信澄の悲劇
本能寺の変直後、噂で味方に討たれた織田信澄

NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」第25回「変事の予兆」では、秀吉(池松壮亮)が弟の小一郎(仲野太賀)に対し、安土城の宴席で「信澄の存在こそが信長の器の大きさを示す証し」と語る場面が描かれる。信澄(緒形敦)は、かつて信長に謀反を起こした弟・信勝の遺児でありながら、信長に重用され、明智光秀の娘を妻に迎えた若き武将だ。しかし、その人生は本能寺の変からわずか数日後、理不尽な最期を迎えることになる。

謀反人の弟・信勝の遺児、織田信澄

信澄の父・織田信勝は、信長と血を分けた同母弟でありながら、織田家の家督をめぐる最大のライバルだった。父・信秀の死後、信長は葬儀で抹香を投げつけるなどの素行の悪さで評判が悪かったのに対し、信勝は礼儀正しく振る舞い、家臣団からの支持も厚かった。信勝は父の居城・末森城を継ぎ、柴田勝家や佐久間大学ら重臣も従えた。この時点で信長の家督相続は盤石とは言えず、むしろ信勝が正統な後継者と見られていた。

1556年、信勝は自ら「弾正忠」を名乗り、信長と稲生で激突する。敗れた信勝は母・土田御前の取りなしで一度は赦されるが、なおも謀反を企て、1558年に信長の策略で清洲城に呼び出され暗殺された。信勝は単なる謀反人ではなく、尾張統一初期に信長の覇権を本気で脅かした存在だった。

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信長の厚遇と信澄の台頭

信長は、本来なら処刑されてもおかしくない信澄を柴田勝家に預けて育てさせた。信澄は成長し、明智光秀の娘を妻に迎え、織田政権の中枢で実力を発揮する。『信長公記』によれば、信長は信澄を重要視し、実子と同様に扱ったとされる。信澄は一時「織田信重」と名乗っていたこともあり、信長の信頼の厚さがうかがえる。

大河ドラマでも描かれるように、秀吉は信澄を「信長の器の大きさを示す証し」と評価し、人望も厚かった。しかし、その好青年ぶりが後に悲劇を招くことになる。

本能寺の変と広まった噂

1582年6月2日、本能寺の変で信長が死去。その直後、信澄に関するある噂が瞬く間に広まった。「信澄が光秀と共謀して信長を討ったらしい」という風聞である。信澄の父は謀反人の信勝であり、妻は光秀の娘だった。この二重の関係が、信澄を犯人扱いする原因となった。

実際には信澄は本能寺の変に関与していなかったが、噂は止まらず、信澄は味方から疑われる立場となった。わずか数日後、信澄は近江国で織田家の武将・丹羽長秀や堀秀政らの軍に襲われ、討たれた。戦国の世とはいえ、父の罪と妻の家柄のために無実の罪で命を落とすのはあまりに不憫である。

信澄の死が示す戦国の理不尽

信澄の最期は、戦国時代の情報の不確かさと、血筋や縁戚関係がもたらす危険性を象徴している。『信長公記』には信澄の死に関する詳細な記述は少ないが、ルポライターの昼間たかし氏は「信澄は信長に愛され、秀吉も認めた好青年だったが、本能寺の変後に広まった根拠のない噂によって命を奪われた」と指摘する。

大河ドラマ「豊臣兄弟!」では、信澄の悲劇がどのように描かれるのか注目される。信長の器の大きさを示す証しとして登場した信澄が、その信長の死によって非業の死を遂げるという皮肉な運命は、視聴者に強い印象を残すだろう。

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