長崎に原爆が投下されてから9日で81年となる。当時の佐賀県立佐賀商業学校(現・佐賀商高、佐賀市)では、長崎市の兵器工場に学徒動員されていた生徒が被爆し、5人が亡くなった。病気で自宅のある佐賀市に戻っていたため被爆を免れた同期生の斎藤実さん(97)は、「俺一人助かって申し訳ない」との思いを抱きながら友人たちを悼み、毎年祈りをささげている。
病気で帰郷し被爆を免れる
斎藤さんは伊万里出身の両親のもと、7人きょうだいの三男として1929年に朝鮮半島で生まれた。36年に足の悪い妹の治療のため、佐賀に引き揚げてきた。
佐賀商業学校に進学後、3年生だった14歳の時に動員された。最初は長崎県佐世保市の海軍基地で弾薬保管所の道路工事に関わった。一度は佐賀に戻ったが、4年に進級する頃、長崎市にある兵器工場に動員され、魚雷の部品を作ることになった。
45年5月頃、気管支の病気を患い、熱が下がらなかったため、佐賀に戻ることになった。同年8月9日、長崎に原爆が投下された時は佐賀にいた。
記憶に残るけが人の光景
記憶に張り付いているのは、その数日後の夜の光景だ。列車で長崎からのけが人が佐賀駅に来ると連絡があり、「同期生がいるかもしれない」と駆けつけた。友人は見つからなかったが、全身血まみれのけが人が目に入った。破いたシャツやズボンに巻く「ゲートル」を包帯代わりに使っている人もいた。けが人を運ぶため、借りたリヤカーの上に雨戸と毛布を敷いて乗せ、市内の病院まで2往復したという。
その後、長崎にいた同期生と佐賀で再会し、死者が出たことを聞いた。亡くなった5人のうちの飯盛源次郎さんとは冗談を言い合ったり、相撲を取ったりしていた仲で特に親しく「涙が止まらなかった」と振り返る。
慰霊碑建立と平和への願い
長崎では原爆で木造2階建ての寮の1階が潰れ、下敷きになった生徒や、割れたガラスが全身に刺さり、命は助かったものの傷痕が残った生徒もいた。
終戦後、同期生は亡くなった5人を寺で慰霊していたが、佐賀銀行に勤めていた斎藤さんは「5人のことを後世に伝えよう。後輩に同じ悲惨な目には遭ってほしくない」との思いを募らせ、学校に慰霊碑を作ろうと動き出した。学校関係者や同窓会に協力を求め、76年に5人の名前と「永遠の平和を願う」と刻んだ慰霊碑が佐賀商高の敷地内に建立された。
同高では毎年8月9日に慰霊祭が開かれるようになり、斎藤さんは通い続けてきた。「佐賀商の生徒が無残な死を遂げたことを広く知ってもらいたい。後輩たちには、戦争はやっちゃいかんということを胸に刻み、社会に関心を持って暮らしてほしい」。1年ほど前から歩行器が手放せない生活になっているが、今年も参加するつもりだ。



