89年前の「奇跡の片翼帰還」 樫村操縦士の実像を専門家と映像で検証
89年前の「奇跡の片翼帰還」 樫村操縦士の実像を検証

89年前の日中戦争で、海軍の戦闘機が左の主翼の3分の1程度を失いながらも600キロを飛行して上海方面の基地に戻った「片翼帰還」は、当時大きな話題となった。今年は昭和元年から満100年となることもあり、読売新聞社が残す写真や映像、専門家の解説を交えて、その実像を見直した。

「特報」となった写真と映像

1937年12月9日、中国南部の南昌への空襲では敵機20以上撃墜の大戦果が伝えられた。翌10日の読売新聞は上海発の特派員電で、参加した戦闘機が「片翼」状態で帰還したことを報じ、「傷ける愛機で六百キロ 神技の基地凱旋 樫村三空曹へ祝福の雨」の見出しを掲げた。

記事によると、樫村寛一操縦士は敵機を撃墜後、別の敵機と空中戦となり、機体をぶつける「体当たり」をしたところ、敵機は黒煙を吐きつつ錐もみ状態で落下。自身の機体は左翼の一部が欠け安定を失ったが、巧みに操縦して帰還した。着陸には苦労し、旋回を繰り返して6回目で大きな地響きが上がったという。

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帰還時の機体を写した写真は上海から福岡県に空輸され、電話回線と専用の「電送機」で東京に送られた。11日朝刊3面は空襲の写真特集で、3枚が大きく掲載され、一番上は「片翼飛行」だった。この写真は他紙にはない「特報」だった。

九六式艦戦の設計と強度

撮影された機体は九六式艦上戦闘機(九六式艦戦)。1936年に採用され、日本海軍が採用した戦闘機として初めての全金属製で、単葉の主翼を持ち、最高速度は時速450キロ。複葉機の九五式艦戦から100キロ向上し、日本の航空技術が先進国レベルに達したことを示す機種だった。

設計・製造は三菱重工業で、主任設計者は堀越二郎氏。太平洋戦争初期に活躍した零式艦上戦闘機(零戦)の設計者としても知られる。航空・軍事評論家の青木謙知氏は、九六式艦戦は「実用化された世界最初の単葉艦上戦闘機だが、降着装置は固定脚で一歩遅れていた」と指摘する。

青木氏は、主翼の3分の1喪失について「機体のどこかを失うなどしたら飛行は困難になり、多くの場合は墜落に至る」とし、「特に主翼は揚力を発生させる重要な役割を担っており、片側を失うと揚力のバランスが大きく崩れて傾きが生じる」と説明。補助翼の操縦もできないため、パイロットは「経験と感覚だけで操縦したはず」で、「着陸できたのは極めて希な、奇跡に近い事例」と評価した。

樫村操縦士の死闘とその後の運命

樫村氏は38年8月のインタビュー記事で、体当たりは敵機が「真直ぐに近づいて来る。交すひまもない」ためだったと説明。衝突後は自機も錐もみ状態になり、「どうせ駄目なら自爆をしてやれ」と考えたが、操縦すると機が頭を持ち上げてきたという。「ともすると左に傾こうとする機を操縦桿を一杯に、そして足も一杯踏んでほとんど体を横にしたまま」飛行を続けた。

着陸を試みる際、基地近くの川に油が浮いて見えたことから、「こんな汚い水の中で泥鼠のように死ぬのは嫌だ」「地上で死のう」と覚悟を決めたことも明かしている。樫村氏は香川県出身で、太平洋戦争中の1943年3月、ソロモン諸島で戦死。29歳だった。

青木氏は、九六式艦戦は零戦などに比べ「しっかりと造られていた」ため、「この程度の被害で済んだのかもしれない」と指摘。一方、零戦は軽量化を優先した結果、強度不足が弱点となり、急降下中の空中分解も起きた。樫村機の帰還は、卓越した操縦技術と設計が相まった結果だった。

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