2026年7月にプレジデントオンラインで反響の大きかった人気記事ベスト3の歴史部門第3位は、本能寺の変後に明智光秀の要請を拒否し、後に天皇の勅命で窮地を救われた武将・細川藤孝を取り上げた記事だ。
大河ドラマ「豊臣兄弟!」(NHK)では、明智光秀(要潤)が本能寺の変を起こし、織田信長(小栗旬)を討った。光秀にはともに丹波攻略を成し遂げた盟友がいた。その男の名は細川藤孝(同ドラマでは亀田佳明が演じる)。
光秀の盟友・細川藤孝の出自
明智光秀は、ルイス・フロイスの『日本史』に「兵部太輔と称する人(細川藤孝)に奉仕していた」と記され、『多聞院日記』でも「細川の兵部大夫(藤孝)が中間にてありし」との記述がある。両書とも信憑性の高い書なので、光秀はもともと細川藤孝の家臣で、その後に義昭の家臣になったと解釈すべきだと、系図研究者の菊地浩之さんは指摘する。
細川藤孝は幕臣の三淵晴員の次男として生まれ、細川家の養子となった。母は学者・清原宣賢の娘で、12代将軍・足利義晴の子どもを懐妊したまま晴員に下げ渡されたとの説がある。藤孝は当代一流の歌人として「古今伝授」を伝えられ、能楽に堪能。包丁さばきに優れた一方、大男で武芸に秀で、怪力の持ち主だったという。剣術を塚原卜伝、弓術を波々伯部貞弘に学び、弓馬故実を武田信豊から相伝された、今でいう「資格マニア」だった。
信長への乗り換えと光秀との決別
藤孝は室町幕府最後の将軍・足利義昭の最側近でありながら、義昭と信長が対立すると信長に付いた。光秀は信長の命で三女・たま(細川ガラシャ)を藤孝の嫡男・細川忠興に嫁がせている。光秀が本能寺の変を起こすと、使者を送って藤孝に行動をともにしてくれるよう頼んだが、藤孝は拒絶して出家。幽斎玄旨と名乗り、忠興とともに隠棲。息子の嫁・たまを離縁させ、幽閉してしまった。
親族の有力大名である藤孝・忠興父子の離反は、光秀にとって大きな打撃となった。山崎の合戦で敗走した光秀が討たれると、羽柴秀吉は藤孝・忠興父子が光秀に与しなかったことを高く評価した。
絶体絶命のピンチを救った天皇の勅命
後に、細川家は豊臣政権から徳川政権へシフトする中で、ガラシャはキリシタンとなり、関ヶ原の戦いの際に人質となることを拒み、家臣に介錯を命じて命を絶った。その後、藤孝は絶体絶命のピンチに陥ることもあったが、芸は身を助く形で乗り切ったという。最終的に細川家は肥後藩主となり、後に首相を生むことになる。



