終戦から3年後、占領軍の兵士と日本人女性の間に生まれた青木ロバァトさん(78)(神奈川県平塚市)は、8歳だった1957年、「聖母愛児園」の分園「ファチマの聖母少年の町」(神奈川県大和市)に預けられた。同様の境遇を持つ男児を受け入れたことから「ボーイズタウン」と呼ばれた施設で、約40人の「兄弟」との集団生活が始まった。
父の失踪と差別の始まり
物心が付いた頃には、神奈川県葉山町の一軒家に住み、チョコレートや肉が手に入る比較的裕福な暮らしだった。たまに帰ってくる父は米兵で、「やられたらやり返せ」と迫ってくる怖い一面もあったが、車で買い物や「米軍キャンプ」に連れて行ってくれた。
6、7歳の頃、そんな父が姿を消した。今考えれば、国に帰ったのだろう。周囲の大人たちの態度は、手のひらを返すように変わった。「ゴー・ホーム(国へ帰れ)」。差別的な言葉を浴びせられ、「なぜ自分ばかりいじめられるのか」と憤った。
施設での生活と「兄弟」の絆
生活は一気に困窮した。母親はバーで働いていたが、6歳下に妹もいて、2人の子どもを養うのは難しく、青木さんは「ファチマの聖母少年の町」(55年設立)に預けられた。カトリック系の施設で、米軍などの援助を受けて運営され、園庭やプールがあり、クリスマスのパーティーも催された。
学校でけんかを仕掛けてくる相手に、理由を尋ねたことがある。返ってきた答えは「肌が黒いから」。「選んでないし、変えられない」。理不尽な因縁に腹が立った。
施設でもけんかは日常茶飯事だったが、後腐れはなかった。見た目もルーツも関係なく、同じ屋根の下で同じ釜の飯を食べる。「みんな兄弟みたいに暮らしていた」。ここが自分の居場所だった。
ただ、世間の目は冷たかった。地元の反対から近くの小学校に通えず、片道1時間かけてバスで通学した。いじめられて泣いて帰ってくる「兄弟」も目にした。この施設で7年間過ごした。
社会での苦難と「兄弟」の支え
中学卒業後、車体工場に就職したが、周囲から外国人扱いされることに嫌気がさし、2年ほどで辞めた。その後、主にトラックやタクシーの運転手として計十数回、転職を繰り返した。「先々で、自分への嫌がらせがあった」
私生活でも嫌な思いをすることが多かった。歩いているだけで「不審者がいる」と通報されたこともあり、たびたび警察官から職務質問を受けた。銀行で口座を開設しようとしたら、行員から反社会勢力と疑われた。「嫌なことを書き並べたら聖書より分厚くなる」
海外で暮らすことも考えたが、「なぜ悪いことをしていないのに逃げなきゃいけないのか」。中には、頼りにしてくる後輩や、公平に扱ってくれた社長もおり、「優しい人にも会えたから今の自分がある」とも明かす。
施設を出てからも「兄弟」とのつながりが、心の支えだった。20年ほど前からはOB会にも顔を出すようになった。話を聞くと、多くが苦しい人生を送っていた。定職に就けず、その日暮らしだったり、自ら音信を絶ってしまったり……。「ずっと社会から受け入れられない。生まれて幸せだったと言えるのは、何人いるだろうか」
伝承への決意と現状
近年、自分のような生い立ちを表す「GIベビー」という言葉が少しずつ浸透し、講演で生い立ちを話す機会もできた。「戦争のせいで『敵国の子』として扱われた存在を残したい」。集合写真に写った中で、今も健在なのは数人で、自分が伝えなければ、「兄弟」の存在がなかったことになるとの危機感がある。
「戦争がなければ生まれていない。じゃあ『あってよかったの』と聞かれたら、絶対に違うと言い切れる」
1950年代初頭に国が行った調査によると、米国の統治下にあった沖縄県を除き、施設に保護された「混血孤児」は全国に482人。そのうち、聖母愛児園を含む神奈川県内の2施設が半数を占めた。
占領軍の兵士が多く駐留した横浜では、一部の兵士と日本人女性の間に子どもが生まれた。望まない妊娠や、父親の兵士が帰国し、母親が育てられなくなった子どもたちを保護したのが聖母愛児園だった。
「GIベビー」の歴史に詳しい横浜都市発展記念館の西村健主任調査研究員は「社会に出てからも基盤がない中で生きていくことが求められた上に、人種による差別も受けた。当事者の苦しみは過去のものではなく、現在進行形で続いている」と話す。



