国のせいで膨大な赤字…中大駿河台キャンパス閉校の不運な顛末
中大駿河台キャンパス閉校の不運な顛末

少子化が進む中、大学キャンパスの移転・再編が相次いでいる。連載「街とキャンパス」第2回は、中央大学の駿河台キャンパスと多摩キャンパスを取り上げる。都心にキャンパスを構えた中大は、なぜ多摩に移転したのか――その背景には、国の法律や社会の変化、そして数々のドラマがあった。

「楽しくない」はずの駿河台キャンパス

1960年代、駿河台キャンパスは昼間部の定員1450人に対し、毎年約5500人の入学者を受け入れており、学生数は定員の4倍近くに達していた。あまりの過密ぶりに長時間立ちっぱなしの学生が続出し、中には雀荘や名画座に避難する者もいたという。アンケートでは4割以上の学生が学生生活を「楽しくない」と答えた。

移転計画の始まり

そんな中大に変化が訪れたのは1978年、文系全学部が駿河台から多摩キャンパスへ移転した時だ。大学本部ごとの大規模移転として注目を集め、1973年に郊外開学した筑波大学と比較された。しかし、当初から全面移転の構想があったわけではない。中大が初めて多摩に校地を購入したのは1960年だが、その時点では使い道が決まっていなかった。

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購入の理由は、1956年に施行された「大学設置基準」で、学生数に応じた校地・校舎の整備が必要になったためだ。『中央大学史紀要』によれば、「駿河台校舎以外の土地を購入することで、基準の校舎面積を達成しようとした」という。つまり、とりあえずの間に合わせとして購入したのだ。

国土法に阻まれて膨大な赤字

その後、多摩キャンパスへの全面移転が本格化するが、そこに立ちはだかったのが国土法(国土利用計画法)だった。土地の価格高騰を防ぐための法律で、中大は多摩の広大な土地を購入したものの、その後の開発に制限がかかり、膨大な赤字を抱えることになる。さらに、1973年のオイルショックも追い打ちをかけ、建設費の高騰や経済情勢の悪化が移転計画に影を落とした。

泣く泣く売却された駿河台キャンパス

こうした状況の中、中大は駿河台キャンパスを売却せざるを得なくなった。都心の一等地にあったキャンパスは、移転後の跡地利用が注目されたが、結局は手放すことに。閉校の顛末は「不運すぎる」と評された。

多摩キャンパスは現在、図書館やヒルトップ(学食・生協)など充実した施設を備え、和洋中なんでもそろう4フロアにわたる巨大な学食は圧巻だ。しかし、駿河台キャンパスの歴史を知る者にとっては、その移転の背景にある苦悩と決断が忘れられない。

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