京都市最北端・左京区久多地区の最長老、小瀧忠雄さん(97)は、敵機襲来や空襲を免れ、終戦の日を迎えた。一度も空を飛べなかった少年飛行兵は、まだ16歳だった。
玉音放送の日、誰も泣かなかった
文化と財産を守る京都・大久保の部隊に所属していた1945年8月15日。兵舎前で玉音放送を聞いても感慨はなかった。戦友は誰も泣かなかった。隊は翌日、あっけなく解散。郷里が近い班長の車に乗せてもらうため3日間残った。「帰れる」。そう思うとぐぐっと感情がこみ上げてきた。
「うれしいて、うれしいてかなん。早いこと母の元に帰らな、あかんと」と小瀧さんは振り返る。ザックと毛布を背負って車を乗り継ぎ、滋賀・朽木の家へ戻ると、母が泣きながら抱きついてきた。長兄と次兄は戦死し、遺骨も戻らなかった。
戦後を生き抜き、久多で新たな人生
飛行兵として戦死するつもりだった自分には「戦後」がやってきた。「人生を考えなければ」と戸惑った。家業の農林業や炭焼きを手伝い、福井県から夜通し歩いて牛を市場に連れてくる仲介人など試行錯誤して、終戦直後の混乱を生き抜いた。
そうするうち、一山越えた久多の伯父夫婦から声がかかり、22歳で養子になった。新たな自宅は久多川沿いにある江戸時代、安政年間に建った元宿屋。家財は「田畑5反、山75町歩」。地元で育った昭子さん(2023年1月、92歳で死去)と結婚し、2男1女に恵まれた。
新天地で農林業を営みながら、木材を鉄道の枕木として売ったり、架橋やキャンプ場設営に参加したりと多彩に活躍した。木の皮をはいで食べてしまうクマも撃った。
花笠踊と伝統行事を守り続けて
70年以上携わってきたのが、久多に伝わる「花笠踊」だ。毎年、盆の1週間はその年の当番宅「花宿」に集い、男性だけで談笑しながら造花を作って灯籠に飾り、8月24日夜、地元の志古淵神社に歌い踊って奉納する。
1999年から6年間は、自治振興会長と花笠踊保存会長も務めた。村のみんなで守り継いだ踊りは2022年、国連教育・科学・文化機関(ユネスコ)の無形文化遺産に風流踊の一つとして登録された。
もともと手先が器用で、「久多に来てからは花ばかり作ってたな」。農家や山仕事につきものの「わら仕事」もお手の物だった。花笠踊のほかにも伝統行事に携わり、市の登録無形民俗文化財「久多の山の神・お弓」では、かかと部分が上に反り返った祭礼用の草履「エビ」を編んだ。その技量は今も衰えず、23年には資料映像の制作に協力し、詳細な説明とともに草履を編む姿が収録された。25年度には市の「伝統行事・芸能功労者」として表彰された。
「戦争は絶対あかん」
久多で暮らして75年。気がつけば地区の最長老になり、一族はひ孫まで29人に広がった。長男で現・自治振興会長の忠一さん(70)は「まじめに家業を継ぎ、財産と文化を守りながら新しい取り組みにも挑戦した。父の生き方を尊敬する」と話す。
昨年、厚生労働省に自身のDNAを提出した。フィリピン・レイテ島で戦死した長兄の遺骨収集と、身元鑑定に協力するためだ。戦争はまだ終わっていない。
一度も空を飛べなかったから、今がある。「自分は運が良かったと思う。戦争は絶対あかん。平和が、ええ」と小瀧さんは語る。



