京都市最北端・左京区久多地区の最長老、小瀧忠雄さん(97)は戦時中、旧陸軍の少年飛行兵として大阪、滋賀、京都を転々とした。死を覚悟して空を見上げていた16歳の少年は、2度の敵機襲来や大空襲を奇跡的に免れた。想定もしていなかった戦後を迎え、京都の山里で文化の大輪を咲かせる一助を担うことになる。戦争と平和、二つの時代を生きてきた軌跡をたどった。
少年時代と家族
1928年(昭和3年)、久多から「山一つ越えた」滋賀県朽木村(現高島市)で5男2女の四男として生まれた。山村は豊かで、おやつは栗などの木の実。川ではウナギやアマゴも捕れ、ひもじい思いをしたことはなかった。
農林業を営む父は甘党で、台湾の黒砂糖を「おかず代わり」にするほど大好物だったが、胃を患い、小瀧さんが8歳の時、37歳で亡くなった。
母は女手一つで子ども7人を育てた。教育熱心で毎日、学校の復習に付き合った。小学5年で習った五箇条の御誓文の「広く会議を興し万機公論に決すべし」の一文は、今もすらすらと暗唱できる。
軍事教育と志願
尋常高等小学校に入ると、日に日に軍事教育の色が濃くなり、事あるごとに教育勅語を聞かされるようになった。「みんな『国のため』という思いで頭がいっぱいになった」と振り返る。
年の離れた兄3人は次々に出征していった。9歳年上の長兄は一時帰宅時に「これからは航空機の時代。飛行兵になって除隊後はパイロットになれ」と助言してくれた。
その言葉通り、高等小学校を出た後の1943年7月、少年飛行兵学校に志願して合格。適性検査を経て翌1944年10月、栃木県にある学校に入った。多くの15、16歳の少年が寝起きを共にし、午前は学科、午後は体操や実習に励んだ。
命がけの日々
入学から1か月後の白昼。突然、敵の戦闘機1機が学校近くに飛んできた。「(米国の)グラマンや」爆音の中、空に向けて鉄砲を撃った後で訓練用の飛行機の下に逃げ込んだ。「死ぬのが名誉と教えられていたので、不思議と怖くなかった」
学校は戦況の悪化で閉鎖され、1945年3月に大阪・八尾に配属された。だが、すぐに滋賀・八日市(現東近江市)に転属。八日市では着いて間もなく、夜空が赤く染まり、雲に映る炎が見えた。大阪大空襲だった。さらに5月、京都・大久保へ転属。ほどなく八日市が空襲され、再び九死に一生を得た。
「子どもは賢いもんで、(日本は負けると)とっくに気付いていた。一言でも言ったらえらいことになるから、黙っていたけれど」
夏も近いある日、木津川の土手にいると、1機の戦闘機が低空飛行で近づいてきた。土手の電柱をつなぐ電線の下をくぐり抜けて上昇し、空のかなたに飛んでいった。自分たちの練習機はベニヤ板製。その差は歴然としていた。「それでも命じられれば、いつでも戦闘機で飛んでいくつもりだった」
久多地区の現在
久多地区は左京区北東部の山間部にあり、滋賀県境に接する。5集落からなり現在の人口は約70人。日本海側と京を結ぶ鯖街道の一つが通り、福井県も近い。京都市街地から車で1時間10分程度。平安時代の文書に荘園として紹介され、室町時代の踊りの流れをくむ花笠踊や川地蔵、松上げなど多くの伝統行事が残る。夏に薄紫色の花をつける「北山友禅菊」も有名。



