「ヒロシマの顔」として被爆者の声を発信し続けた坪井直(すなお)さんが96歳で死去して24日で5年となる。核兵器廃絶の願いは、多くの人に受け継がれている。生前の坪井さんと交流を重ねた広島在住のバンドマンもその一人だ。紛争が絶えない現状を憂えて2年前に完成させた曲に乗せ、「ネバーギブアップ」の思いをこれからも訴えていく。
原爆を歌った唯一の曲
5人組パンクバンド「愚鈍―GUDON―」でボーカルを務めるレコード店店主、大小田(おおこだ)伸二さん(61)(広島市西区)が2024年に完成させた「ただいま―No More Hiroshima Edition―」。10代でバンド活動を始めて以来、60曲以上を作ってきたが、広島の原爆を歌ったのはこの曲だけだ。
広島市出身。高校を中退して友人とバンド活動にのめり込み、1984年にレコードデビューした。反体制や反権力を叫ぶパンクロックが好きで、バンドでも激しい楽曲を扱ってきた。
2000年8月6日、東京を拠点に活動する知人のバンドが広島で反戦ライブを行った。「これって、広島にいる俺たちがやらなきゃいけないんじゃないの」。原爆被害を知ることから始めようと、被爆者らにインタビューし、04年から毎年夏に反戦を訴える小冊子を発行してきた。力強い言葉で発信する坪井さんは一番話してみたい人だった。「『何もわかっていない』と怒られないか」。ためらいつつも、07年に初めて申し込んだ。
坪井さんの深い傷と向き合って
爆心地から1・2キロで被爆し、約40日間意識不明となったこと、全身にケロイドが残ったこと……。体験を優しく、丁寧に語ってくれた。約3時間のインタビューでは、被爆者であることを理由に恋人の親から結婚を反対されたことにも話が及んだ。「(恋人と)2人で睡眠薬を飲んだけど、死ねなかった」と自殺を試みたことも明かした。
「人間・坪井直の深い傷が見えた。わかった気でいた被爆者のつらさ、苦しみを実感した」。
坪井さんへのインタビューは毎年の恒例になり、時々の国際情勢などを話題にした。最後となった18年は体調不良を理由に一度断られたが、後日、「君の取材なら」と応じてくれた。
坪井さんが21年10月24日に死去した後、坪井さんの親族から「『被爆を体験していないのに、同じ世界に入ってきてくれたのはすごい』と言っていた」と教えられた。核兵器廃絶を諦めない「ツボイズム」を引き継ぐ思いを強くした。
「核ミサイルのネジ一つくらいは減らしたい」
22年2月にロシアがウクライナに侵略し、核使用を示唆する威嚇を繰り返すなど、核兵器を取り巻く状況は深刻さを増している。こうした状況への危機感から生まれたのが、「ただいま」だ。05年から毎年8月6日に広島市内で反戦ライブを開いてきたが、「やっとできた」という。
アップテンポの激しい曲に、核兵器や戦争がなくなる日への願いを込めた。平和教育などに取り組む一般社団法人「かたわら」代表理事で、大小田さんの小冊子に寄稿したこともある高橋悠太さん(26)(横浜市)は「平和活動と縁の薄い人たちにも、大小田さんは音楽を通してメッセージを伝えている」と話す。
坪井さんのインタビューはいつも「ネバーギブアップ」の言葉で締めくくられた。大小田さんは「坪井さんの活動で世界に何万とある核弾頭の一つぐらいは潰せたと思う。わしは核ミサイルのネジ一つくらいは減らしたい」と力を込めた。
坪井さんは広島工業専門学校(当時)に通っていた20歳の時に被爆した。戦後、中学校教諭として朝礼や授業で戦争や核兵器の恐ろしさを繰り返し伝え、「ピカドン先生」と呼ばれた。1986年の退職後、本格的に被爆者運動に関わり、国内外で被爆証言を行った。2000年に日本原水爆被害者団体協議会(被団協)代表委員に就任。16年、現職米大統領として初めて広島を訪問したオバマ氏と握手を交わした。
坪井さんに背中を押されて被爆証言などを始めた人は多く、その死後も遺志を引き継いで活動を続けている。被爆80年となった25年に営まれた広島市の平和記念式典の平和宣言では、「ネバーギブアップ」の言葉が引用された。被団協代表委員を引き継いだ箕牧(みまき)智之さん(84)(広島県北広島町)は「坪井さんは力強く、パワーのある方だった。坪井さんの『諦めない』という思いをつなぎ、核兵器廃絶や恒久平和を訴え続けていかなければならない」と話した。