広島市中区の原爆養護ホーム「舟入むつみ園」には年に数回、入所者たちの被爆体験を聞くために修学旅行生らが訪れる。5月下旬には、山形県鶴岡市立鶴岡第二中学校の3年生約30人が来園し、5階ホールで車座になって入所者5人の話を聞いた。
被爆体験を語る空民子さん
一つの輪の中心にいたのが、入所して5年ほどの空民子さん(84)。「熱線によるやけどで手の皮膚が垂れ下がって幽霊みたいな人がいた」と81年前の広島の惨状を語った。
3歳だった1945年8月6日、爆心地から1.4キロの稲荷町(現・広島市南区)の自宅で被爆。一緒にいた両親と姉、妹は無事だったが、爆心地近くにいた叔父と叔母は遺骨も見つからなかった。自宅は倒壊し、迫り来る炎から逃れるため、家族で近くの山上を目指した。途中、幼い子を抱いた全身やけどの女性に「この子だけは助けて」と求められたが、一家は何もできず、すぐにその場を離れた。「申し訳ないという思いが頭から離れない」と空さんは言う。
平和への思いを胸に
原爆で大やけどを負っていた祖母は終戦を告げる玉音放送を聞いた後に亡くなった。戦後はイナゴやサツマイモの茎などを食べて空腹をしのいだ。
20歳代前半で結婚し、息子を授かった。差別が怖く、周囲に被爆者であることを極力明かさずに生きてきたが、「あの日を生き延びた者として、同じ悲劇を繰り返さないよう、いつか体験を語りたい」という思いも抱えていた。
語り部としての活動
2017年、ノーベル平和賞を受賞した「核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)」の授賞式で、被爆者代表として証言したカナダ在住のサーロー節子さん(94)に感銘を受けた。「核兵器廃絶のために世界で体験を語ってみたい」と翌年、国際NGOが行うピースボートツアーに申し込んだ。各国をクルーズ船で回り、被爆体験を証言するツアーで、約3か月かけて米国やシンガポールなどを巡った。ハワイの大学生ら約50人の前で体験を語ると、真剣な表情で聞いてくれた。「平和な世界になるにはどうしたらいいか」などの声も聞かれ、「伝える意義を感じた」と喜びがこみ上げた。
帰国後、当時ショートステイで利用していたむつみ園の職員に「証言をお願いできないか」と声をかけられた。快諾し、「語り部」として活動を始めた。
未来へつなぐ平和の祈り
鶴岡第二中の生徒らには約1時間、原爆の恐ろしさや貧困のつらさなどを伝えた。最後に折り鶴を手渡し、「平和な日常を大切にしてね」と呼びかけた。同中の白幡徹評さん(14)は「当たり前の日常の尊さを実感した。平和への思いを未来につないでいきたい」と語った。
空さんは手記の執筆にも取り組んでいる。ほぼ毎朝、被爆体験や家族のこと、むつみ園での生活などを記す。手記のタイトルは「生きてそして輝く」とした。「むつみ園が私の平和活動の拠点」と空さんは顔をほころばせる。被爆者なき時代が訪れ、その役割を終えるまで、原爆養護ホームは入所者たちの心のよりどころであり続ける。



