97歳が語る戦争体験「今死ぬか今死ぬか」防空壕で震えた日々
97歳が語る戦争体験、防空壕で震えた日々

茨城県日立市の大越ハルエさん(97)は、1945年の日立空襲や艦砲射撃、焼夷弾投下など、市民ら約1400人が犠牲となった戦禍を経験した。終戦から81年が経った今も、「戦争を経験した一人として、記憶を伝え続けたい」と語る。

あの日の空襲、家族と防空壕で

1945年6月10日の朝は快晴だった。茶摘みをしようとしていると、南の空から聞いたことのない爆音が響き、見上げるときらめく爆弾が見えた。日立空襲だった。大越さんは土間へ転がり込み、家族14人で身を寄せ合った。轟音が鳴り響く中、隣では母が孫を抱き、お経を唱えていた。

音がやみ外へ出ると、兄が働く工場が燃えていた。安否を確かめようと父と家を飛び出すと、工場へ向かう人たちが「工場の防空壕がつぶされた」と叫んでいた。多くの人が生き埋めになっていた。黒煙と炎が立ち上る工場に近づけず、不安なまま家へ戻った。夕方になり、兄から「無事」との伝言が届いた。

Pickt横長バナー — Telegram用の共同買い物リストアプリ

艦砲射撃と焼夷弾、町は火の海に

翌日夕方に帰ってきた兄の話は想像を絶した。家1軒がすっぽり入るほどの大きな穴が至る所に開き、機械やコンクリートの破片が散乱していた。あちこちから「助けて」と呼ぶ声が響き、性別も分からない遺体を何十体も運んだという。

翌月17日の大雨が降る夜、照明弾が街を昼間のように照らした。家族で庭の防空壕へ駆け込むとすぐに艦砲射撃が始まった。大木が裂け、家が崩れる音が響き渡り、「今死ぬか、今死ぬか」と狭く暗い防空壕で恐怖に震えた。静かになって外へ出ると、家の裏にあった大杉は根元を残して吹き飛ばされ、家には長さ1メートルほどもある砲弾の破片が突き刺さっていた。この射撃で担任の先生が亡くなった。

2日後には1万発を超える焼夷弾が投下された。空中でさく裂した火が四方八方へ飛び散り、町は火の海に。母校の県立日立高等女学校(現在の日立二高)も全焼した。

教師として、語り部として

戦後は小学校教師となった。親を亡くした子どもに弁当を持っていったり、山菜採りで生計を立てていた子どものため、児童全員を連れて山菜採りに行ったり、厳しい生活の孤児を支えた。同校卒業生による手記にも自身の戦争体験をつづり、平和の大切さを訴えた。亡き夫らが終戦後まもなく建てた市内の慰霊碑も、「志半ばで犠牲になった若者たちの思いを残したい」と、手入れを続けている。

今でも市内の学校などで体験を語る。当時を思い出すと、つらい記憶がよみがえり、涙があふれる時もある。だが戦争を経験したからこそ、相手の心に届くように語ることができると信じる。

Pickt記事後バナー — 家族イラスト付きの共同買い物リストアプリ