81回目の原爆忌を迎えた6日、広島市中区の平和記念公園など各地で、遺族らが祈りをささげた。戦禍から人の一生を超すほどの時が過ぎ、「被爆者なき時代」が迫る中、次の世代へ体験を語る被爆者や、平和のバトンを受け取ろうと行動する若者たちの姿があった。
灯籠流しで平和への願い
夜には、原爆ドーム前の元安川で、亡き人を悼み、平和を願う灯籠流しが行われた。夜のとばりが下りるにつれ、色とりどりの灯籠が鮮やかさを増し、静かに流れていった。原爆ドーム前や元安橋には多くの市民らが詰めかけ、水面にともる明かりに込められた平和への願いに思いをはせた。
被爆者たちの証言
平和記念公園では、早朝から被爆者や遺族らがあの日の惨禍を語り、追慕の情をささげた。
兄を亡くした国府幸代さん(76)(京都市)は「父の勤め先の呉市内から実家がある京都まで列車で帰る途中、広島市内で両親と兄が被爆した。この日のうちに京都へ戻ったものの、約5日後に当時1歳半の兄が亡くなったと聞いている。母のやけどはひどく、ケロイドで苦しんだ。父も入退院を繰り返した。戦争は絶対あかん。どれだけ民間人の犠牲者が出ることか」と語った。
母と姉2人が被爆した福間守彦さん(91)(広島県福山市)は「疎開していた三次市の小学校での朝礼で、広島市の方向が一瞬光り、『どーん』という音がかすかに聞こえた。何が起きたかわからないまま、8月末に自宅のあった広島市中区に戻ると、文字通り何もなく、焼けた人の骨が転がっていた。あの光景は思い出さないようにしているが、8月6日になると自然と思い出してしまう」と話した。
孫と「原爆の子の像」に手を合わせに来た藤井紀子さん(78)(広島市安佐南区)は「孫が小さい頃から、毎年この日は一緒に手を合わせに来ている。父方の親戚は十日市町(広島市中区)で被爆した。倒壊した家からは、奥さんとおなかにいた赤ちゃんの小さな骨が見つかった。実家の寺(安佐南区)は、本堂や廊下が被爆者でいっぱいになり、祖母が手当てした。被爆者の体はウジ虫がわき、一日中取っても終わらなかったと聞いた。何度聞いても悲惨で苦しい記憶だ」と語った。
母が勤め先で被爆し、伯父が行方不明の藤本義彦さん(89)(広島市安佐南区)は「原爆投下時、私は小学3年生で、母は今の西区にあった配給所で働いていた。母は『伯父さんを捜しに行くよ』と言い、一緒に輜重隊へ向かった。そこには、ただれた人たちで行列ができ、地面は真っ黒の死体だらけ。母は死体の顔を手でかき分けていった。『母ちゃん、気持ち悪いからやめて』と言っても、母は血眼になって捜した。伯父のように今も見つかっていない人がいる。そのことを忘れないでほしい」と訴えた。
母とともに入市被爆した小松俊作さん(83)(広島市中区)は「広島市立第一高等女学校(現舟入高)に通っていた、いとこたちを捜すため母に背負われ、疎開先から市内へ入って被爆した。遺体は見つかっておらず、手がかりも残っていない。家もつぶれ、写真も全て焼失してしまったため、肖像画を描いてもらった。自分も若い頃は後遺症のためか、体がだるいときが続くなど苦しんだ。どれだけ語っても本当のことは伝えきれないだろうが、それでもこの体験は残していかないと」と語った。



