中大・駿河台キャンパスの青春:混雑と雀荘避難の記憶
中大駿河台キャンパスの青春:混雑と雀荘避難

ライフ #街とキャンパス 「教室が混みすぎて雀荘に避難」「図書館は朝7時から並んで席取り」…学生から不評だった「中大・駿河台キャンパス」の青春 8分で読める 公開日時:2026/06/19 05:30

中大の「駿河台キャンパス」。以前は「駿河台記念館」があり、学員(卒業生)の交流の場として機能していた(写真:筆者撮影) 松本 史 フリーランス編集・ライター フォロー

「学生生活が楽しくない」その意外な理由とは

少子化が進んだことで、大学キャンパスを移転・再編し、学部・学科の新設・再編を絡める動きが相次いでいる。そして、その背景には社会の変化や法律の影響、様々な人間ドラマがある。連載「街とキャンパス」。第2回は中央大学の駿河台キャンパスおよび多摩キャンパスを取り上げる。都心にキャンパスを構えた中大は、なぜ多摩に引っ越ししたのか――。

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2023年4月、中央大学の看板学部である法学部が、多摩キャンパスから茗荷谷キャンパスに移転し、45年ぶりの都心回帰として大きく報道された。その報道の中で、“おまけ”のように紹介されていたのが、同じタイミングで開校した「駿河台キャンパス」だ。御茶ノ水駅から徒歩3分、ロースクールとビジネススクールの2つの専門職大学院が入ったキャンパスで、これまであった駿河台記念館が建て替えられ、地下1階、地上20階の高層ビルに生まれ変わった。

しかし、このおまけ扱いの「駿河台キャンパス」こそ、中大の真の意味での都心回帰の舞台だ。関東大震災で神田錦町の校舎が焼けたことをきっかけに、中大は1926年に神田駿河台に移転した。そこから、78年に多摩キャンパスに移転するまでの約半世紀、中大の中心はこの駿河台にあった。

大学のキャンパスが多く、昔から学生街として知られている駿河台だが、オフィスビルが立ち並ぶ現代ではビジネス街の側面も強い。しかし、戦後復興から高度経済成長期を迎えた50年代から70年代半ば、昭和の体温が一番高かった頃、確かにここは学生が主役の街だった。JR御茶ノ水駅。神田駿河台には明大や日大、東京科学大などのキャンパスがある(写真:筆者撮影)。

学生にとって大きな負担だった学費値上げ

『中央大学140年のあゆみ』に、昔の『中央大学新聞』から55年前後の中大生の学生生活をひもとく章がある。これが実に興味深く、現代では想像できない昭和中期の学生生活が見えてくる。次ページが続きます:【「学生生活が楽しくない」理由の最たるものは…】

当時の学生たちは、教室の混雑に悩まされていた。定員を大幅に超える学生が在籍しており、教室は常に満員で、空いている席を探すのに苦労した。あまりの混雑に、学生たちは近くの雀荘に避難して勉強することもあったという。図書館も同様で、朝7時から並んで席を取らなければならなかった。こうした劣悪な教育環境が、学生運動と結びつくこともあった。

一方で、駿河台時代の中大は東大を圧倒する勢いを持っていた。しかし、少子化や社会の変化に伴い、キャンパス移転が進められた。都心から多摩への移転は、当時の学生にとって大きな変化だった。そして、45年ぶりの都心回帰として、法学部が茗荷谷へ、大学院が駿河台へ戻ってきた。

駿河台キャンパスは、今や最先端の教育施設として生まれ変わったが、かつての学生たちの青春の記憶は、混雑した教室や雀荘での勉強、図書館の行列に刻まれている。昭和の熱気あふれる学生街の面影は、今もなお語り継がれている。

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