終戦の年に生まれ、戦争の記憶はない。それでも、平和のためにできることがあると考え、松山市御幸の阿部純子さん(81)は「平和の語り部」となった。衝撃を受けた児童文学「ヒロシマの火」を紙芝居にし、多くの子どもらに被爆の悲惨さを伝えている。
原爆の惨状を伝える紙芝居
「すごい光でした。続いて耳が破れ、頭が割れるほどの大音響に大地が揺れました。人間に初めて落とされた核兵器、原子爆弾でした」
松山市内で紙芝居を実演してくれた阿部さんは、原爆が投下された広島の惨状が描かれた絵をめくりながら、一言一句を丁寧に、力を込めて読み上げた。場面に合わせて流される音楽はおどろおどろしく、見る側の緊張を高める。
物語は、山口勇子さんの児童文学「ヒロシマの火」(新日本出版社)。原爆が広島の街を壊滅させた後、焼け跡から「原爆の火」が福岡県の村へと持ち帰られる。戦争への怒りの象徴だったともしびが、「平和の火」として受け入れられ、長い年月、守り続けられてきた姿がつづられる。
通訳として交流、訪日客に言われた言葉
阿部さんは1945年2月、父親が畜産関係の仕事をしていた中国・北京で生まれた。8月に日本は戦争に敗れ、生後半年ながら両親とともにアメリカの捕虜となった。翌年3月に米軍艦で日本に帰国した。
両親によると、中国内を移動する汽車では貨物置き場のような場所に押し込められ、劣悪な衛生環境で赤痢などが流行。亡くなった赤ちゃんが海に流されることもあったといい、「私は九死に一生を得た」と語る。
帰国後は愛媛県八幡浜市で暮らし、愛媛大を卒業。平穏な日々が過ぎていった。
転機は91年頃、得意な英語を生かし、通訳の仕事をしたいと思い立った。広島の会社を紹介してもらったことで、被爆者や被爆団体の通訳を引き受けるようになり、関係者らとの交流が深まった。
広島平和記念資料館で通訳をしていた際、外国人観光客から「アメリカへの腹いせで世界平和を主張しているだけなんだろう」と言われた。平和の願いを嫌がらせだと受け止める人がいることに驚き、返す言葉が見つからなかった。
そんなとき、「ヒロシマの火」と出会い、「憎しみが祈りに変わった物語を広めることが使命だと突き動かされた」と明かす。
「見てくれる人を信じ、続ける」
紙芝居は95年に制作した。絵の得意な大学生や知人に作画を依頼した。英語訳も付け、平和活動のイベントに持参し、物語を通じて原爆の恐ろしさを広く伝えてきた。
松山市が2002年に始めた「平和の語り部」事業にも加わり、年に2、3回、小学生に紙芝居を読み聞かせる。「まるで戦争当時の声が聞こえてくるようだった」「原爆はすごく怖い兵器。ほんの1秒で街や人を消してしまうことがわかった」といった感想が寄せられているという。
終戦から81年となり、戦争の風化が進む。阿部さんは「親になった頃、紙芝居を思い出し、子どもに『広島でこんなことがあった』と語り継いでいく、そんなんでいいんじゃないかな」と語り、「見てくれる人を信じ、語り部活動を続けていく」と前を向いた。



