写研とモリサワの共同開発:石井茂吉が生んだ細明朝体の誕生秘話
写研とモリサワ:石井茂吉が生んだ細明朝体の誕生秘話

戦後復興期に求められた新たな明朝体

1948年6月、石井茂吉は東京印書館の借棟を離れ、大塚に写真植字機研究所を復帰させた。その背景には、手狭になったことに加え、1947年頃から着手していた新しい明朝体の原字制作があった。茂吉は自宅でペンをとり、原字制作に没頭する日々を送っていた。当時、自宅には電話がなく、成増の東京印書館工場との連絡に不便を感じていたため、巣鴨新田への移転を経て、大塚に研究所を戻したのである。

茂吉が新たな明朝体に取り組んだ理由は、戦前の1933年に制作した明朝体(のちの中明朝体/石井中明朝オールドスタイル小がな MM-A-OKS)が、小さな文字でオフセット印刷すると潰れてしまったからだ。活版印刷用の活字は、印刷時のインキの太りを見越して細めに作られていたが、茂吉の戦前の書体は活字よりは細いものの、当時のオフセット印刷にはまだ肉太だった。戦後、チラシなどの一枚物にオフセット印刷が増え、紙は仙花紙(粗悪なザラ紙)、インキも質の悪いものが使われていたため、写植の書体は潰れやすく、より細い書体が必要とされた。

細明朝体の開発と完成

茂吉は、戦前の明朝体を単に細くするのではなく、戦後生まれ変わった日本の世相にふさわしい、優雅で繊細な明るい書体を目指した。3年以上の歳月を費やし、1951年に「細明朝体」(のちの石井細明朝ニュースタイル小がな LM-NKS)が完成。これに伴い、従来の明朝体は「中明朝体」と名称変更された。

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この細明朝体の完成を待ち望んでいたのが、平凡社および東京印書館の創設者・下中彌三郎である。下中は1947年の東京印書館設立時、社員に「君らは職人であってはならない。技師として、今後仕事をして貰いたい」と語り、「活字のない印刷工場」を目指した。写真植字機の普及が遅れている理由を、活版工の抵抗にあると考えた下中は、東京印書館を写植専門工場として出発させ、10年後には写植の割合が5割に達すると見込んだ。

初の本格的写植出版物と細明朝体の採用

東京印書館は1948年から1949年にかけて、全10巻の『社会科事典』(平凡社刊)を写真植字機で組版・オフセット印刷した。本文は戦前の明朝体(中明朝体)を使用。これは活字を一切使わない大量ページのオフセット印刷物として記念碑的だった。しかし戦後の悪質な用紙では中明朝体が潰れて読みづらく、下中は茂吉に新書体の制作を督励。1951年から刊行する『児童百科事典』で使いたいと考えた。

細明朝体は1951年に完成し、すぐに平凡社の『児童百科事典』(全24巻、1951~56年、印刷:東京印書館)で使用された。同書は2色刷りの本格的事典で、細明朝体の優雅な姿を世に示した。和田栄吉は『下中彌三郎事典』で、「『児童百科事典』に用いられている写真植字の文字は、それまでのものよりもずっとスマートな書体である。…石井文字の第一回の作品は『児童百科事典』によって世上に出た」と述べている。また『東京印書館の50年』では、「石井細明朝体は用紙事情の劣悪さを乗り越える精度と美しさを兼ね備え、まさに写真植字の発展に対する福音となった」と高く評価された。

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中ゴシック体の誕生とその影響

細明朝体が辞典や書籍の本文に使われるようになると、小見出しや強調に使うゴシック体が太すぎて合わなくなり、ユーザーから細いゴシック体の要望が寄せられた。茂吉は1954年に「中ゴシック体」(のちの石井中ゴシックMG-A-KS)を完成。書風は太ゴシック体(戦前のゴシック体、のちの石井太ゴシックBG-A-KL)と同じだが、線の太さを約4分の3に細くした。11級や12級の本文サイズでも潰れず、印刷効果が高く、各社が導入し、小見出しや強調部分に広く使われるようになった。

このように、石井茂吉は時代のニーズに応えた書体を次々と開発し、写真植字の発展に大きく貢献した。2024年には写研とモリサワの共同開発により、これらの書体がOpenTypeフォントとしてリリースされ、新たな時代を迎えている。