中大・駿河台キャンパスの知られざる歴史と学生たちの熱き青春
中大・駿河台キャンパスの知られざる歴史と青春

教室不足と図書館の席取り合戦

中央大学の駿河台キャンパスは、かつて「駿河台記念館」として卒業生の交流の場として機能していた。しかし、学生たちの間では「教室が混みすぎて雀荘に避難する」「図書館は朝7時から並んで席取りをする」といった不満が絶えなかった。こうした劣悪な教育環境が、後に学生運動へとつながっていく。

学生運動の高まり

1960年代は安保闘争など社会運動が盛り上がり、学生たちはその中心的担い手となった。60年代半ばからは政治闘争に加え、大学の管理運営など学内問題での紛争が頻発。1965年12月には、建設中の学生会館の自治権をめぐって駿河台校舎の封鎖・ストライキが発生し、これが中央大学紛争の始まりとなった。

学費値上げ問題の衝突

特に1968年の学費値上げ問題は、中央大学紛争で最大の衝突となった。大学側が発表した50%を超える学費値上げに対し、学生側は白紙撤回を要求し、バリケードを設置して無期限の全学ストライキに突入。卒業試験の延期などの混乱を経て、最終的に学生側の要求が通り、値上げは白紙撤回された。この騒動の責任を取って理事長や学長、全学部長が辞職し、大学は一時機能停止に陥った。

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神田カルチェ・ラタン闘争

1968年6月には、駿河台一帯で「神田カルチェ・ラタン闘争」が勃発。カルチェ・ラタンは、パリの学生街で大規模な反政府運動が起こった場所にちなむ。社会主義学生同盟の呼びかけに応じた中央大学、明治大学、日本大学などの学生が、アジア・太平洋閣僚会議の開催反対を掲げて中央大学の中庭で決起。「ここを日本のカルチェ・ラタンに」と呼びかけ、明大通りにバリケードを築いて解放区を作り、機動隊に投石を繰り返す激しい騒乱となった。これ以降、駿河台ではたびたびバリケードで解放区を作る闘争が起こるようになる。

映像に残る闘争の記憶

YouTubeにアップされた映像には、1969年1月の東大闘争に呼応した駿河台の闘争の様子が映っている。ヘルメットを被りゲバ棒を持って闊歩し、剥がした歩道の敷石を叩きつけて投石を作り、機動隊と正面衝突して揉み合う学生たち。社会変革への思い、暴力的衝動、高揚感――あの頃の駿河台は、そんな学生たちの熱気に包まれていた。

駿河台時代は中大の黄金期だった

次ページでは、駿河台時代が中央大学の黄金期であった理由について詳しく掘り下げる。

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