戦後81年、元海軍通信兵の山本寿男さんが語る「生き地獄」の戦場体験
戦後81年、元海軍通信兵が語る「生き地獄」の戦場体験

終戦から81年が巡る。当時を知る戦争体験者が減る中、愛媛県内で語り部として活動する男性がいる。松山市持田町の山本寿男さん(99)だ。太平洋戦争で旧日本海軍の通信兵として南方戦線に出征し、爆撃や飢えなどを味わった。「生き地獄だった。戦争は二度と起きてほしくない」との思いで、過酷な経験を語り継いでいる。

軍国少年から海軍の通信兵へ

山本さんは1927年、松山市生まれ。教師らから戦争や兵隊の話を繰り返し聞かされ、自然と軍国少年に育った。国民学校卒業後の41年12月、志願して海軍に入隊し、通信兵として訓練を受けた。戦争末期の44年5月にインドネシア・ニューギニア島西部のマノクワリへ送られ、第18警備隊に所属した。

主に大本営からの通信を受ける任務に従事。直接戦闘に加わる機会はなかったが、基地はほぼ毎日攻撃を受け、常に死が身近にあった。山本さんは、ニューギニア島での生活について「毎日2、3回の爆撃があった。生と死の境がない日々だった」と振り返る。

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「大勢の人が一瞬で木っ端みじんに」

印象に残る体験の一つが、45年2月頃に基地を襲った米軍機による爆撃だ。自身は退避して無事だったが、近くの防空壕の入り口に爆弾が直撃。中にいた十数人全員が死亡した。遺体は跡形もなく、近くのパパイアの木に、白髪交じりの後頭部の肉片が張り付いていたのを覚えている。「大勢の人が一瞬で木っ端みじんになった。あの光景は、忘れたくても忘れられない」と話す。

戦況の悪化に伴い、本国から食料や物資が届かなくなり、飢えや病気にも苦しんだ。特にマラリアによる40度以上の高熱はつらく、「頭がぼうっとして、このまま死んでもいいとさえ思った」という。空腹をしのぐため、トカゲやカタツムリを口にし、バナナ1本で1日を過ごしたこともあった。

帰国後に知った母の死

迎えた8月15日。天皇陛下の「玉音放送」で敗戦を知り、ほっとしたと同時に「本当に日本に帰れるのか」との不安も頭をよぎった。実際に帰国がかなったのは、約10か月後の46年6月。松山に戻ってすぐ、出迎えた父から、出征前に元気だった母が病気で亡くなったことを知らされた。ショックだった。

「100歳になっても続けたい」

約15年前、戦場での体験を語り始めた。市民団体からの要請がきっかけだ。「戦争がいかに残虐なものかを伝えていく必要がある。理解してもらえるかは分からないが、話さないことには分かってもらえない」と山本さん。講演などに呼ばれる機会は年数回に減ったが、「100歳になっても体が動く限り続けたい」。語り部を続けるつもりでいる。

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