1945年8月、日本は原爆2発の投下とソ連の参戦を受けながらも、自力では戦争を終えられなかった。政府と軍の首脳はポツダム宣言の受諾条件をめぐって対立し、首相が一元的に決着させる仕組みもなかった。政治学者の伊藤隆太氏は「昭和天皇が8月10日と14日、わずか4日で二度の『聖断』を下したのは、大日本帝国の意思決定機構が自力では機能しなくなっていたからだ」と指摘する。
敗戦は見えていた、それでも止まれない
1945年夏、日本の敗色は覆いようがなかった。海軍の主力艦隊はすでに壊滅し、制空権を失った本土では各都市が空襲で焼かれ、6月には沖縄の組織的戦闘も終わった。8月6日に広島に、9日には長崎に原子爆弾が投下され、同日未明にはソ連が対日参戦して満洲へ侵攻を始めた。
大日本帝国憲法は、天皇が統治権を総攬し、陸海軍を統帥すると定めていた。ただし通常の国務は、国務大臣が方針をまとめて天皇を「輔弼」し、その責任を負う仕組みであり、天皇が対立する政策案の一方を自ら選んで決着させることは異例だった。しかも軍隊を動かす権限である統帥権は政府から独立し、首相であっても陸海軍の作戦には口を出せなかった。
国務と統帥の調整機構も行き詰まり
国務と統帥を調整するため、大本営政府連絡会議(1944年8月に最高戦争指導会議に改称)は設けられていた。しかし、政府と統帥部の意見が割れたときに首相が一元的に決着をつける権限は弱く、終戦局面では、その調整機構も行き詰まりを解消できなかった。
天皇が自らの意思で国策を決める「聖断」は、その建前から外れた例外中の例外である。その例外が、8月10日と14日、わずか4日間で二度も繰り返された。
原爆投下でも審議は動かなかった
9日午前10時30分、最高戦争指導会議が開かれた。いわゆる「6人会議」に出席したのは戦争指導の中枢を担う鈴木貫太郎首相、東郷茂徳外相、米内光政海相、そして阿南惟幾陸相、梅津美治郎参謀総長、豊田副武軍令部総長。午前11時すぎには長崎への原爆投下の報も入ったが、審議に影響した様子はなかったとされる。
意見の割れ方は単純だった。東郷外相と米内海相は、天皇の統治上の地位を変更しないとの了解だけを付す「1条件案」(東郷案)を支持した。一方で阿南陸相、梅津参謀総長、豊田軍令部総長はこれに、占領の拒否、自主的な撤兵と武装解除、戦争責任者の自国での処理を加えた「4条件案」を譲らなかった。鈴木首相は結論をまとめられず、会議は午後1時に散会した。夜の閣議も一致できなかった。
「3対3」の対立構図が固まるのは、鈴木首相が東郷案への支持を明言する10日未明の御前会議である。「受諾するか」より「何を条件にするか」で、国家意思は止まった(『昭和天皇実録』第9巻、外務省編纂『終戦史録』)。



