天正8(1580)年以降、織田信澄は大坂に常駐し、信長から厚い信任を受けていた。その証拠は同時代の記録にも残っている。
宣教師フロイスの書簡に記された信澄の地位
天正9(1581)年、宣教師ルイス・フロイスが日本在留の同僚に宛てた書簡には、安土に連れてこられた黒人(弥助)を見物した人々の様子が記されており、そのなかに信澄の名が見える。
「今大坂の司令官である信長の甥もこれを観て非常に喜び、銭一万〔十貫文〕を与へた」
この「大坂の司令官」という呼び名は、フロイスら宣教師たちのあいだで信澄がそう認識されていたことを示している。「信長の甥」という立場以上に、大坂方面の実務を任された重要人物として周囲から見られていたのだろう。
一門衆としての序列5位
天正9(1581)年正月15日の左義長(さぎちょう:火祭りの行事)では、信長みずから「織田衆御一族」として名を挙げた一人に信澄が含まれ、信長の弟・信包や次男・信雄、三男・信孝らとともに、十騎単位の編隊を組んで馬場を駆け抜けている。
同年2月の京都御馬揃えでも、信忠(80騎)、信雄(30騎)に次いで、信包や信孝と並ぶ10騎を率いて参加。一門衆のなかで序列5位にあたった。謀反人の子という出自を考えれば破格の厚遇といえるだろう。
信長が“裏切り者の信勝の子”を重用したワケ
信長は疑わしい者をためらいなく粛清してきた人物として知られる。実弟・信勝でさえ二度目の謀反で誅殺し、功臣の佐久間信盛のことも些細な失態で追放している。
その信長が、なぜ「二度も裏切った信勝の遺児」である信澄を、第一線で使い続けたのか。
考えられるのは、信澄自身の能力の高さである。信長は人材登用において、出自よりも実力を重視する傾向があった。信澄は戦場での働きに加え、行政・外交の実務でも結果を出し続けていた。信長にとって「替えの利かない人材」になっていたと見られる。
また、信澄自身が父の謀反に加担したわけではなく、信長の手元で養育された「織田家が育てた人材」だったという事情も大きいだろう。
信勝の謀反は信勝の個人的な野心によるものであり、幼くして父を失った信澄に咎はない……そんな思いが、信長のなかにあったのかもしれない。
息子たちを支える存在に
信澄はその後も秀吉の天下取りを支える存在となり、豊臣政権の中枢で活躍した。彼の存在なくして秀吉の成功はなかったとも言われる。



