秀吉を天下人にした男・豊臣秀長の実像 本能寺の変前夜に出世した信澄の悲劇
秀吉を天下人にした男・豊臣秀長の実像 信澄の悲劇

織田信長が弟・織田信勝の子である織田信澄を重用した背景には、冷徹な信長の計算と信澄の有能さがあった。信澄は信長の嫡男・信忠と同世代で、信忠の配下として戦場を共にし、信長は次世代を支える人材として信澄を育てる狙いがあったとされる。

本能寺の変による暗転

しかし、1582年の本能寺の変により信澄の運命は一変する。信長を討ったのは信澄の舅である明智光秀だった。当時、信澄は四国遠征軍の副将として織田信孝・丹羽長秀と共に大坂にいた。大坂の市中に「謀反は信澄と光秀の共謀」との噂が広まると、信孝と長秀はこれを信じて信澄を攻め滅ぼした。

奈良・興福寺の僧侶が記した『多聞院日記』には「六月五日、大坂にて七兵衛(信澄)を殺害したとのこと。光秀の娘婿で、たいへん優れた人物であった。三七殿(信孝)、丹羽五郎左衛門(長秀)、蜂屋(頼隆)らの仕業だろうか。ただし、これは噂かもしれない」と記録されている。同時代の記録者から見ても、信澄は能力ある武将だったことがうかがえる。

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信長の信頼と悲劇の原因

信長が買っていた「光秀の娘婿」という立場が、信長の死後は「謀反人の縁者」という疑惑の根拠に転じた。もし信長が生きていれば、信澄は織田政権の中枢で活躍し続けたに違いない。信長は自らの子でない一族の中で、信澄を最も信頼していた一人だったのである。

このエピソードは、真山知幸著『戦国最高のNo.2 豊臣秀長の人生と絆』(日本能率協会マネジメントセンター)などから引用されている。参考文献には『信長公記』や『多聞院日記索引』などが挙げられている。

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