読売新聞オンライン(YOL)で窪美澄さんの連載小説「紺碧(こんぺき)のアビタシオン」が始まった。1915年(大正4年)に満州(現中国東北部)の大連で生まれ、後にステンレスの流し台を日本に広めることになる女性の一代記である。これまでも弱き者に寄り添う作品を発表し続けてきた窪さん。その思いは今作でも変わらないが、一方で「今まで書いてこなかったような主人公になる」とも語っており、作家として新たな一面を拓く作品にもなりそうだ。
和室に抱いた居心地の悪さ
物語は、1920年の大連から始まる。5歳の美貴子は2年前に母と双子の妹たちをスペイン風邪で亡くし、父との暮らしに寂しさを感じながらも、使用人もいる家で不自由ない日々を送っていた。やがて父は再婚。美貴子が12歳の時には緑豊かな高台にある西欧風の新居に引っ越すが、そこに一室だけ設けられた、床の間のある和室が、彼女に違和感を抱かせる。
普段は和やかにテーブルを囲み、使用人にも分け隔てなく接してきた父が、正月になると和室の床の間の前、つまり上座に座り、美貴子らを下座に置いたからだ。父の偉さは分かりながら、住宅に権威を示すための構造があることに居心地の悪さを感じた美貴子。彼女がそれから何を見、何を胸に刻みながら、戦後の主婦の「憧れ」となるステンレスの流し台を普及させるようになるのか。そこが、今作の読みどころになっていきそうだ。
主人公のモデルは日本初の女性1級建築士
美貴子にはモデルがいる。「ダイニングキッチンの生みの親」とも呼ばれた、日本初の女性1級建築士・浜口ミホ。戦後の住宅改善に尽力し、家の北側や裏側に追いやられていた台所を清潔で明るい場所に移したことでも知られる人だ。
「住宅の中での女性の立場を、少しでも上げようとしたのがミホさんでした。台所をジメジメした土間から日の当たる場所に持ってきて、女性たちが使いやすいようにしたんです」
苦難の末に、道なき道を切り拓く女性――。そんな人物の描写は、窪さんが得意としてきたものの一つだ。実在の人物をモデルとした小説だけでも、男性中心だった半世紀以上前の出版社で出会った女性3人の夢や葛藤をつづる『トリニティ』や、明治末に生まれ、文芸評論家と若い詩人との間で揺れ動いた女性を描く『夏日狂想』がある。
時に男性の壁に、時に社会の壁に、そして時代の壁にも阻まれた女性たちが、どう闘い、生き抜いたのか。今作にもこれらの作品に共通する部分が少なくないが、「今まで書いてこなかったような主人公になる」のは、モデルの浜口ミホの生き方、考え方によるところが大きいそうだ。
逆境を逆境と思わず
従来のヒロインたちは、自身が陥った逆境や自分を取り巻く環境に「恨み節が入ったり、なにくそって思ったりしながら、ふんばってきた」。けれどミホは「そういうところから、ことごとく外れた人だったんです。逆境を逆境と思わないというか、自分の人生を楽しんでいるというか」。
建築という男性優位の世界で、ミホは相当苦労したはずだが、窪さんは文献などで彼女を知るたびに、その姿勢に驚かされ、惹かれていく。「建築界には女性があまりいなかったからすごく得をしたとか、女性だから損をしたとはそれほど思っていない、などと後のインタビューで話されていて、すごく不思議でした。どこか明るくて、透明感もあって」
もの作りに励む人間の熱量も描く
今作は評伝ではないため、主人公の美貴子の人生のすべてが、ミホの実人生と重なるわけではない。その隙間で窪さんは想像の翼を広げ、登場人物たちの心の動きなどを詳細に書ける。また、ミホの生きた時代、例えば戦時下での社会の変容や、戦後のもの作りに励む人間の熱量なども記されることになりそうだ。そして、窪さんが一貫して作品に込めてきた思いもしっかり描かれていくはずだ。
人は、ただ生きているだけでいい――。「自分に言い聞かせていることでもあり、年齢を重ねた私が、若い人にも繰り返し伝えたいことでもあるんです」
では、重い手触りの物語となるのでしょうか。いえ、今作ではやはり、ミホの明るさが影響するようだ。「『窪美澄の小説は暗く、ドロドロしているから苦手』という方にも、楽しく読んでいただける作品になると思います。ミホさんはすごくフェアで、素敵な人。それを書ければいいな」
窪美澄さんは1965年生まれ。2009年に「ミクマリ」で「女による女のためのR―18文学賞」大賞を受賞。11年に『ふがいない僕は空を見た』で山本周五郎賞に輝き、12年に『晴天の迷いクジラ』で山田風太郎賞、22年には『夜に星を放つ』で直木賞を受けた。
「紺碧のアビタシオン」は、大連生まれの美貴子が日本に戻った後、当時の女子の最高学府だった東京女子高等師範学校に入学。卒業後も建築家になる夢を諦められず、東京帝国大学で聴講生として学んだ。その後、設計事務所に職を得たが、時代が戦争へと向かう中、変容する様々なものを目にする。戦後は、人々の生活の向上を目指し、モダンなダイニングキッチンの開発に奔走。やがて台所に革命を起こしていく。
連載開始を記念して、窪美澄さんの小説『たおやかに輪をえがいて』(中公文庫)に窪さんのサインを入れ、抽選で3人にプレゼントする。応募には誰でも無料で取得できる読売IDが必要で、締め切りは10月18日。



