家に帰るやいなや、美貴子はあの人のことを母に尋ねた。「お母様……川島芳子さんって」。しかし母は「しっ」と人さし指を唇の前に立て、「私はそんな方を知りません。そんな方はこの町にはいません」と言ったきり、膝の上の編み物を再開した。母がこうなるととりつく島がない。美貴子は川島芳子のことは母に聞かせてはいけない話と理解し、その存在を心の奥深くにしまった。
学校帰りの出来事
学校帰りのある日、自宅に向かう坂の真ん中で美貴子は一人派手に転んでしまった。右膝をしたたかに打ち、血が出ている。そのとき、ふいに香水の香りがした。「大丈夫ですか? 立てますか?」と声をかけられた。顔を上げると、そこにあの川島芳子がいた。やはりスーツ姿で、胸ポケットに一輪の真紅の薔薇をさしている。
美貴子が何も言えずに黙っていると、彼女は美貴子を軽々と抱え、道の端の石の上に座らせた。真っ白なレースのハンカチを取り出し、美貴子の膝の血をやさしく拭ってくれた。ハンカチは美貴子の血で汚れた。
優しい手当てと薔薇の贈り物
美貴子が泣きそうな顔で「申し訳ありません……」と言うと、彼女は「なあに、気にすることはありません。私の家はすぐそこなんです。そこで治療をしたほうが……」と提案した。しかし美貴子は「いっ、いえ、それには及びません。ありがとうございます」と慌てて立ち上がった。膝小僧がじくりと痛む。
「それならばこうしましょう」と彼女は美貴子の膝にそっとハンカチを巻いてくれた。「……ありがとうございます」とやっとの思いで美貴子が言うと、彼女は胸のポケットに差していた一輪の薔薇を差し出し、「お怪我がすぐに治りますように」とだけ言って、その場から風のように去った。香水の残り香がまだそこにあった。亡き母がつけていた香水の香りにも似ていた。