村上春樹の3年ぶりとなる新作長編『夏帆 The Tale of KAHO』が刊行され、早くも話題を集めている。文芸評論家の高澤秀次氏は、本作を「期待通りの傑作」と評し、その深層に迫るレビューを寄せた。
主人公は絵本作家、「捨て子物語」の系譜
本作の主人公は絵本作家であり、作品全体を貫くテーマは「捨て子物語」とも呼ぶべきファミリー・ロマンス(家族物語)だ。高澤氏は、このモチーフが「白雪姫」や「シンデレラ」など世界中の昔話で繰り返され、日本でも「継子いじめ」の物語として古来より変奏されてきたと指摘する。
では、なぜ多くの子どもたちがこうした物語に引き寄せられるのか。それは「自分は今ある両親ではなく、別の親の子どもかもしれない」という、子どもたちの深層に埋め込まれた根源的な危機意識と深く関わっている。古今東西の昔話や童話は、親に疎まれ捨てられた無力な子どもが実は尊い「貴種」であったという種明かしによって、多感な子どもたちを襲う深刻な危機を物語的に昇華してきた。
凡庸なアイデンティティの危機を超えて
しかし、高澤氏によれば、村上春樹の新作の「可能性の中心」は、そうした凡庸なアイデンティティの危機を超えたところにある。本作は、小さな「家族物語」を反人間中心主義的な視点から解決する回路を提示しているという。
村上春樹は、第一次世界大戦に従軍し決定的なアイデンティティの危機を経験したアメリカのロスト・ジェネレーションの作家たち、具体的にはフィッツジェラルドやチャンドラーといった、自ら翻訳も手がけた作家たちの影響下に出発した。かつて評論家・川本三郎との対談で村上はこう語っている。「十九世紀文学のテーマっていうのは、主体の確認だと思うんです。いかに人間が主体によって行動するかということだったと思うんです。それが二十世紀に入ると、主体っていうのが果して存在するかという問題になってくるんですね」(「R・チャンドラー あるいは都市小説について」)。
都市の周縁地が浮かび上がらせるもの
その結果、登場人物たちが「主体的」に選んだわけではない「都市」が、従来の「主体」の行方に先行する主題として物語的に浮上してくる。本作では浦和や武蔵境といった「都市の周縁地」が重要な役割を果たしており、これが作品に独特の奥行きを与えている。
高澤氏は、『夏帆 The Tale of KAHO』が村上春樹の文学的な歩みの中で、新たな境地を切り開く一作であると評価している。



