昭和八年、東京・小石川区大塚町にある東京女子高等師範学校(通称・女高師)と、そのそばに建つ寄宿舎で、美貴子の新しい生活がスタートした。
女子教育の最高峰、女高師の歴史と特徴
女高師は、官立師範学校として明治八年に開校した。この頃、女子にはまだ大学に進む道は開かれていなかったが、女高師は当時としては珍しい女子四年制で、女子の教育機関としては日本最高峰とみなされていた。
学費がほとんどかからない代わりに、卒業後は皆、教師となり、各地に赴任することが義務付けられていた。地方に赴任すると、舎監も兼任するため、その指導は美貴子がぼんやりと想像していたものとは違い、とても厳しいものだった。
震災後に再建された豪奢な学び舎と寮生活
女高師の建物は大正十二年の関東大震災で焼失し、その後、昭和七年までに新しい学び舎と寄宿舎が建てられていた。美貴子が入学した頃でも、まだ新築のように見える豪奢な建物だった。寄宿舎は木造二階建てで、文科、理科、そして美貴子の属する家事科の四学年の生徒、約三百五十人の寮生を収容できた。
「あの寮は東洋一の学生寮ですから」と、入寮前から幾度も母から聞かされていたが、確かに母の言葉に間違いはなかった。
人家から離れているのは少し寂しくはあったが、その分、空気は澄んでいて、ここが東京の町中とは思えなかった。時には運動場に雉が舞い降りて鳴くこともあった。美貴子が入寮した春には沈丁花が薫り、桜の花が新入寮生たちを迎えた。朝の運動時間、運動場のテラスに立つと、豊島岡の森と、護国寺の青い屋根が見えた。特に晴れた日には、西の空に富士山が浮かび上がることもあった。
四つの寮と縦割りグループでの共同生活
寮は蘭、竹、梅、菊の四つに分けられ、四つの寮は渡り廊下でぐるりと大食堂につながる。炊事室、浴室、洗濯室も完備されていた。生徒が寝起きする生徒室は四十以上あり、それぞれが八名を収容する自習室と、その左右両側にある二つの寝室を持っていた。各寝室の定員は四名。この二つの寝室は各科、各学年の生徒が縦割りで混成されていて、美貴子を含む計八人の生徒がひとつのグループになり、家族のように生活を共にしていた。