戦争の体験談を直接聞く機会が減少する中、被爆者の証言をもとに作った絵本2冊を刊行した。吾郷修司さんは「戦争や平和はみんなで考えるべきもの。自分が知ったことを、本を通して多くの人に伝えたい」と話す。
絵本の出版と被爆者との出会い
2025年10月、初めての絵本「そのときぼくは9さいだった」を出版した。広島の爆心地から500メートル以内で被爆した「近距離被爆者」で、唯一存命とされる友田典弘さん(90)(大阪府)の体験をもとにしている。
9歳だった友田さんは、袋町国民学校(現・広島市立袋町小)で被爆。弟や母と死別し、当時友田さんの家に間借りしていた男性と共に朝鮮半島に渡り、朝鮮戦争に巻き込まれながらも生き延び、日本に帰国した。
友田さんとの出会いは、小学校の教諭だった16年夏。友田さんに関する新聞記事を目にして衝撃が走った。「こんな近距離で被爆した人がいて、まだその人が生きているなんて」。すぐに新聞社に連絡を取り、友田さんのいる大阪に足を運び、その後何度も通った。
吾郷さんがすぐに行動に出るのには「今あるチャンスを逃したらもう話を聞くことはできないかもしれない」という思いがあるからだ。
演劇活動と戦争への関心
吾郷さんは1996年頃からほぼ毎年、勤務先の小学校の演劇のために戦争や平和などに関する脚本を書き下ろしてきた。執筆のために現地へ行き、当時を知る人への取材を重ねた。
2005年に書いた脚本「遠い空のひつじ雲」は、神戸市から真庭市の勝山小学校区に25人の子どもたちが集団疎開していたことを取り上げた。詳しい記録が見つからなかったため、「自分で調べるしかない」と関係者に話を聞いた。書き上げた後も、子どもたちに細部を伝えるため、神戸市や長野県まで足を運んで直接確かめた。
ある子は親を神戸空襲で亡くした。そのことを知って絶望したが、周囲の人に励まされて立ち直り、強く生きるというストーリーに仕上げた。
56歳の時に作家活動に専念するため早期退職。「戦争の体験者から話を聞けるのはあと少し。だから1年でも早くやらないといけない」との思いからだった。
作品へのこだわりと決意
吾郷さんが戦争に関心を寄せるようになったのは、特攻隊員だった伯父の話を聞いたことがきっかけだった。移動中の艦船が魚雷攻撃を受けて海に投げ出され、一日中海をさまよったが、救出されて生還した経験があった。出撃の待機をしていた時に終戦を迎え、帰国した。
伯父は淡々と戦争の話をした。その感覚が信じられなかった。戦地に行くと死ぬと分かっているのに、なぜ感情が動かないのか。そんな社会の状況がどうやって作り出されたのか。疑問を持ち、突き詰めてきた。
絵本でも演劇でも最もこだわっているのが、悲しいだけの物語にしないことだ。「悲惨さばかりを伝えていても子どもたちは戦争の勉強をするのが嫌になってしまう」。強く生き抜いたことで子どもや孫に囲まれ、幸せな人生を送ることができたなど、「生きていれば人生悪いことばかりじゃないと前向きになれるような作品にしたい」と話す。
「自分にしかできないことはないかもしれないが、自分しかやらないことはある。教え子たちを戦地に行かせないために、戦争体験を継承したい」。そう強く思う。



