秀吉を天下人にした男、豊臣秀長の実像 城を捨てた城主と命を捧げた23歳の武将
秀吉を天下人にした男、豊臣秀長の実像 城を捨てた城主と命を捧げた23歳の武将

戦国時代、城を捨てて逃亡した城主は荒木村重だけではなかった。豊臣秀吉の天下統一を支えた弟・豊臣秀長の視点から、城を捨てた者たちと、逆に自らの命と引き換えに城兵を救った武将の実像を描く。

大友義統の逃亡と改易

豊臣秀吉の九州征伐の際、大友義統は自らの城を捨てて逃走した。義統の行動は、同じく城を捨てた荒木村重と並び、秀吉の怒りを買った。義統が逃げた背景には、家臣の行長が戦死したという誤報があったとされるが、真相は定かではない。結果として、源頼朝以来の名門・大友家は改易され、滅亡した。

別所長治の選択

一方、播磨・三木城の城主・別所長治は、秀吉に反旗を翻し、籠城する。秀吉は兵糧攻めで応じ、「三木の干殺し」と呼ばれる苛烈な包囲戦が2年近く続いた。城内では餓死者が続出する地獄絵図と化したが、長治は逃げなかった。

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『信長公記』によれば、長治は弟・友之、叔父・吉親とともに切腹することを条件に、城兵の助命を秀吉に嘆願した。天正8年(1580年)正月17日、長治は23歳で腹を切った。辞世の句は「今はただ 恨みもあらじ 諸人の 命に替わる わが身と思えば」と伝わる。城兵は助け出されたという。

荒木村重だけが「前代未聞」である理由

城を捨てた城主は複数存在するが、荒木村重の行動は特に秀吉の怒りを買った。村重は有岡城を捨てて逃亡し、妻子や家臣を見捨てた。その行為は「前代未聞」とされ、秀吉の記憶に深く刻まれた。一方、別所長治のように自ら死を選んで城兵を救った例もあり、城をめぐる選択は武将の評価を分けた。

豊臣秀長は、兄・秀吉の天下統一を支えながら、こうした城の明け渡しや武将の処遇にも関与した。秀長の実像は、単なる補佐役ではなく、戦国時代の人間模様を理解する鍵となる。

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