広島を拠点に活動するタレントで作家のうえむらちかさんが、被爆者の祖母の体験に基づいた小説を出版した。被爆後の広島でソフトボールに打ち込む少女たちを描いた「1946年の女子塁球部」。戦争で奪われた青春を取り戻そうとする姿を通じ、当たり前の日常の大切さを伝える。
祖母の体験を聞くまで
うえむらさんは広島で生まれ育った。祖母の草田カズヱさん(96)の家によく遊びに行ったが、被爆体験を聞くことはほとんどなかった。幼い頃は原爆の話が怖く、その後も祖母に思い出させたくないと避けていたためだ。
専門学校を卒業後に上京し、タレント活動を始めた。プロ野球・広島東洋カープのファンだったことから「カープ女子」として注目を集め、ドラマやバラエティー番組などに出演した。
被爆70年、祖母の証言
被爆70年だった2015年夏。テレビ局の企画で祖母の話を聞いた。カズヱさんは安田高等女学校(現・安田女子中学・高校)4年だった1945年8月6日、爆心地から約1・5キロの友人宅で被爆した。屋根の下敷きになり、背中に無数のガラスが刺さった。顔と両太ももには大やけどを負い、2か月ほど寝たきり状態になった。
46年、教師の誘いでソフトボール部の創設に携わった。家族らには反対されたが、白球を追いかけている時は被爆のつらい記憶を忘れられたという。初代主将を務め、47年には県大会で優勝した。
小説執筆の決意
ソフトボール部の話になると祖母の表情は緩んだ。「平和になったからソフトボールに出会え、青春を取り戻すことができた。戦争はしちゃいけん」。しみじみと語る祖母の言葉が胸に響き、「原爆で何もかも失った少女たちが、悲惨な経験を乗り越えて充実した日々をつかんだことを忘れてはいけない」と考えた。
うえむらさんは作家活動も行っており、「小説に書くしかない」と決意。図書館に通い詰め、資料や当時の新聞を読み込んだ。しかし、タレント業が忙しくなり、書く手が止まった。2021年に拠点を広島に移した後も執筆を先延ばしにしていた。
母の死が背中を押す
24年11月、73歳だったうえむらさんの母が白血病で亡くなった。直後にカズヱさんも右脚を骨折し、入院。医師から「寝たきりになるかも」と告げられ、「当たり前に続くと思っていたことも当たり前ではない。祖母が生きているうちに小説を完成させないと後悔する」と思った。再び筆をとり、一気に書き上げた。
小説は4話構成で、第1話は被爆の話。後はソフトボール部が強豪に育っていくさまを、祖母の話に創作を交えて書いた。「1946年の女子塁球部」(KADOKAWA、160ページ)は今年6月に出版された。
伝承者としての活動
うえむらさんは今、祖母の被爆体験を自身の口からも伝えていこうと、高齢化する被爆者の代わりに証言活動を行う広島市の「伝承者」を目指している。カズヱさんは「多くの人に自分の体験を伝えてくれるのはうれしい」と目を細める。
うえむらさんは「戦争体験者がいなくなった後に、あの日のことがおとぎ話になってはいけない。被爆3世として、当たり前の日常の重要性を積極的に発信していく」と意気込む。



