フォント業界の二大巨頭である「写研」と「モリサワ」。両社の共同開発により、写研書体のOpenTypeフォント化が進められています。2024年は邦文写植機発明100周年にあたり、写研の創業者・石井茂吉とモリサワの創業者・森澤信夫の歩みを、フォントやデザインに詳しい雪朱里さんが紹介します。
突然の手紙
1948年(昭和23年)、石井茂吉は二度目の引っ越しで大塚に戻り、写植機製造が軌道に乗り始めていました。第1回目の計画の50台が終わり、次の50台の製造に進んでいたのです。大阪から届く機械も初期ほど粗雑ではなくなり、茂吉たちの手間も減っていました。しかし、茂吉の心には一つ引っかかるものが残っていました。
数カ月前、茂吉がまだ成増の東京印書館工場を間借りしていた頃のことです。1948年6月より前、大阪の信夫から送られてくる機械は部品不足や取り付けミスが多く、再整備に追われていました。そんな中、信夫から突然の連絡が届きます。
「A型機の製造を打ち切り、当方で開発した新型機に切り換えたい」
茂吉にとって寝耳に水の提案でした。信夫の新型機は、横組みの出版物の増加を見越して、横組みの能率を大幅に改善するものでした。光源とレンズ系統を固定し、暗箱をマガジン式にして左右に動かす仕組みです。アイデアは悪くないものの、茂吉はこれまでの経験から、実用化には相当なテストが必要だと感じていました。しかも、信夫が送ってくる品質粗悪なA型機の現状を見ると、新型機への全面切り換えはユーザーに対する責任が果たせないと考えたのです。
茂吉は首を縦に振りませんでした。写植機のニーズが高まる中、評判を落とすようなことをすれば写真植字機研究所の存続も危うい。新型機を導入するにしても、A型機の生産を続けながら1年から2年かけて十分に検討し、完全なものにしてから世に出すべきだと考えました。
茂吉の意向を伝えられた信夫はひとまず納得し、第2回目の50台の生産に入ります。しかし、茂吉は信夫の新型機熱がいつ再燃するかわからないと、うっすらとした心配を抱えていました。
新型写植機への想い
信夫が新型写植機の構想を練り始めたのは、戦後に茂吉と再提携する1946年(昭和21年)春よりも前のことでした。再提携は茂吉からの懇請で始まり、A型機の分担製造を依頼されたのです。しかし、材料不足と納期に悩まされ、できあがった写植機は信夫自身が「実にお粗末なもの」と認める出来でした。
後に写植機の熱心な支持者となる東京印書館の和田栄吉も、当時のA型機について「そのころの写真植字機はいかにもお粗末な個人差の多い機械というよりもむしろ道具に近い性能のものだった」と語っています。
A型機の基本部は信夫が設計した初期の考案によるものでしたが、信夫は「この種の機械では、光源、レンズ系統が動くのは如何にもまずい」と考えていました。ネジ工場時代から「ほんとうの写真植字機はどうあるべきか」を考え続け、茂吉との再提携後も一日も早く新しい写植機を開発し、批判の多いA型機から切り換えたいと思っていたのです。
信夫はA型機の製造に追われるかたわら、頭の中のアイデアを練り直し、余暇を見つけては設計に取り組み、1947年(昭和22年)の完成を目標に考案試作を進めました。つまるところ、再提携後初期のA型機が粗悪品ばかりだったのは、信夫の心が新型機の開発に向いており、それどころではなかったからでした。部品が逆さまについたような状態も、下請け工場に頼りっぱなしだったためです。
MC型写真植字機の誕生
信夫は1947年中の完成を目指しましたが間に合わず、最初の1台が完成したのは1948年(昭和23年)1月でした。後にモリサワ写植機の代表シリーズとなる「MC型写真植字機」の最初の型「MC1型」です。信夫は目標とした1947年を記念して、第1号機のフレームに「1947. M」と入れました。
「MC」という名前には信夫のこだわりと写植への想いが込められています。
「このMCという名称は、これまで私のたどって来た、大正時代より、昭和八年東京時代と大阪へ帰るまでの期間と、大阪での螺子工場時代、写真植字機再開と、三度の大きな変遷を意味するためにCをとり入れ、頭に森沢のMをつけたものである。今日に至って自分自身をふり顧ってみるとき、写真植字機を完成するために、私という人間は生れて来たようなものだと、つくづく感じさせられた」「大阪で螺子工場をやっていた時代は、植字機より離れておったが、考えてみればこの時代の蓄積がなかったら、恐らく我々の手で写真植字機は再起が出来なかったであろう」
ようやく戦前から考え続けてきた新しい写真植字機が形になり、信夫の心は喜びでいっぱいでしたが、すぐに世間に公表することは控えました。信夫は茂吉との契約のもとでA型機を製造し、茂吉がユーザーに供給しているからです。自分が勝手に新型機を発表しては茂吉の顔が立たないと考え、まずは茂吉に新型機のことを知らせ、大阪に機械を見にきてもらって、世に出す時期を相談しようとしました。
そこで信夫は茂吉に手紙を出しました。1948年6月より前の時期です。ところが、せっかちな性格が文面に出てしまったのか、新型機に自信があるあまり筆が滑ったのか、茂吉は信夫が突然「A型機の製造を打ち切り、当方で開発した新型機に切り換えたい」と言ってきたと受け取ったのです。「自分勝手なことをせず、石井さんに相談して、発表時期を決めよう」という信夫の心づかいは、うまく伝わりませんでした。
(続く)※次回は8月18日更新予定です。



