最新史料が否定「秀吉と毛利の密約」本能寺当日の吉川元春書状が示す悲痛な本音
最新史料が否定「秀吉と毛利の密約」本能寺当日の元春書状

NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」第28回(7月19日放送)で描かれる本能寺の変後の秀吉と毛利の和睦。従来、秀吉が毛利となにがしかの密約を結んでいたのではないかとの俗説が唱えられてきた。しかし、2026年6月に報じられた最新研究が、これを否定する新たな史実を明らかにした。ルポライターの昼間たかし氏が、和睦の実態をひも解く。

「毛利氏との和睦」で勘繰られる“密約説”

本能寺の変の凶報に接した秀吉は、既に安国寺恵瓊を通じて交渉中だった条件を緩和。備中・美作・伯耆の割譲と、備中高松城主・清水宗治の切腹によって毛利氏と和睦した。宗治は城兵の助命を条件に、兄弟と共に小舟を漕ぎ出し切腹。辞世「浮世をば 今こそ渡れ 武士の 名を高松の 苔に残して」は後世に語り継がれ、今も備中高松城本丸跡に首塚が残る。

しかし、この和睦の背景には、秀吉と毛利の間に密約があったのではないかという憶測が絶えなかった。秀吉軍は約3万人、毛利方は備中高松城に5000人、吉川元春・小早川隆景の援軍が5万人と、兵力で勝る毛利が戦わずして和睦し、領土と家臣の命まで差し出したことから、毛利がボンクラに見えるというのがその理由だ。

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吉川元春の書状が明かす「密約説の否定」

2026年6月に発表された最新研究では、吉川元春が本能寺の変当日に書き残した書状が分析され、密約説を否定する内容が確認された。書状の中で元春は、秀吉との和睦を「やむを得ない選択」とし、その本音を「毎日、気が気でない」と吐露している。これは、毛利側が楽観的に和睦したのではなく、切羽詰まった状況下で決断したことを示している。

当時は内陸ではなく“海の域”

当時の戦況を理解するには、地理的な要素が重要だ。秀吉の本陣は備中高松城周辺の内陸ではなく、海に近い地域にあった。毛利氏は瀬戸内海の制海権を握ることで優位に立っていたが、織田水軍の台頭により状況が変化。特に、毛利水軍を支えた村上水軍などの一部が織田方に寝返ったことで、制海権を失い始めていた。

“楽観視”していた織田勢の侵攻

織田信長は中国地方への侵攻を本格化させており、毛利氏は楽観視できない状況にあった。秀吉の軍勢は3万人、さらに信長からの援軍も見込まれていた。毛利方は総勢5万人を超える兵力を擁していたが、長期戦になれば補給線が脅かされるリスクがあった。

水軍の裏切り、失った制海権

最大の打撃は、毛利水軍の離反だった。かつて毛利氏と同盟を結んでいた海賊衆が秀吉側に寝返り、瀬戸内海の制海権は織田方に移った。これにより、毛利氏は海からの補給が困難になり、陸路での補給も困難な地形だったため、戦略的に追い詰められた。

「和睦」以外の道がなかった

吉川元春の書状は、こうした状況下で和睦以外に選択肢がなかったことを如実に物語る。元春は「毎日、気が気でない」と書き、毛利家の存続を最優先に考えていた。秀吉との密約説は、史料に基づかない俗説であり、実際は毛利側がやむを得ず和睦を受け入れたというのが真相だ。

最新研究は、毛利氏が単に弱かったわけではなく、複合的な要因で和睦に追い込まれたことを示している。水軍の離反による制海権喪失、信長の本格侵攻への恐怖、そして吉川元春の悲痛な決断。これらの要素が重なって、戦国史に残る和睦が成立したのである。

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