広島市が養成する「被爆体験伝承者」の藤井文子さん(71)が、故郷の愛媛県宇和島市で講話を行い、被爆者の記憶を次世代につなぐ活動を続けている。被爆者の高齢化が進み、証言を聞く機会が失われつつある中、藤井さんは「広島県外の人にも、被爆者のことをもっと知ってほしい」と願う。
資料館で聞いた体験が原点
藤井さんは宇和島市立宇和島病院で管理栄養士として勤務し、定年後の2017年に広島修道大(広島市安佐南区)健康科学部の教授となった。2024年3月に退職した後、広島市が被爆体験伝承者を募集しているとテレビで知り、心が動いた。
広島平和記念資料館(広島市中区)などで聞いた被爆体験が忘れられなかったからだ。惨状を生き残った人たちが、その後にどのような人生を歩んだのかを知った。食べ物も薬も乏しい中、苦しんできた姿は、病院で食と健康に携わってきた自身にとって、身につまされる思いがした。
証言者の中には、被爆の実体験がなく、被爆者から伝え聞いた証言を語る人がいたことも思い出した。「それなら、話すことが仕事だった私にもできそうだ」と伝承者に応募した。
伝承は時間との闘い
当初、被爆者3人の証言を受け継ぐことを希望したが、伝承者として認められるまでの約1年半の間に、2人が亡くなった。話を聞けたのが、6歳で被爆した内藤慎吾さん(87)だ。伝承も時間との闘いになっていた。
1945年8月6日朝、内藤さんは広島市の爆心地から約1・7キロの自宅にいた。庭にある防空壕の入り口で、カニを捕まえようとしゃがんだ時、爆風で壕の中へと吹き飛ばされた。
原爆は家族の命を奪った。弟と妹は、倒壊した家から救い出されたが、母親に抱かれて救護所に向かう途中で息を引き取った。父親と2人の兄も犠牲となり、母親も体調を崩して8年後に亡くなった。
こうした体験について、藤井さんは内藤さんから繰り返し聞き、講話のための原稿を作った。「被爆者が話すと、すごく素直に、すっと入ってくる。でも、伝承者だとそうはいかない」と伝える難しさも感じている。必要以上に感情を込めず、事実を静かに伝えることを心がける。
広島県外へつなぐ
藤井さんは今月19日、広島平和記念資料館で、1時間にわたって内藤さんの体験を語った。原爆が投下される前後の様子を説明し、被爆後に内藤さんと家族がたどった日々を伝えた。
大阪府から訪れた原田博子さん(73)は「被爆者の言いたいことをしっかり咀嚼していて、実際に体験した話を聞くような緊張感があった」と振り返った。
藤井さんは、広島県外での講話も重視する。自身が宇和島で暮らしていた頃、被爆者の人生をほとんど知らなかったことも理由だという。5月に故郷で実現した講話は「一番したいことだった。目的が一つかなった」と明かす。
9月には高知県でも講話する予定だ。「いずれは語り部の方はいなくなってしまう。何かの形でつないでいく人は必要だと思う」
被爆者の高齢化が進み、実体験を語れる人は年々減っている。厚生労働省によると、被爆者健康手帳を持つ人は3月末現在、全国で9万1105人となり、平均年齢は86.66歳。愛媛県内でも311人にまで減った。松山市は184人で、初めて200人を下回った。



