「何の話をしているのかわからない」――東急のDX推進組織「市民開発事務局」に配属された入社2年目の蕪木文香氏は、当初、飛び交うIT用語についていけず自信を失っていたという。しかし、その“わからなさ”こそが、DXを進めるうえで大きな武器になった。非IT人材、そして新卒だからこそ見えた、DX推進組織と現場社員の間にあるギャップとは。「kintone hive 2026 Tokyo」で紹介された東急の取り組みを追う。
東急が「市民開発事務局」を立ち上げた理由
東急は、社員自らがデジタルツールを活用して現場の業務を改善する「市民開発」を推進するため、2025年2月に「市民開発事務局」を設立した。グループ企業から同社への出向者を含む7名で構成され、DX人材の育成や伴走支援、情報発信などを担い、これまで70以上のプロジェクトを支援してきた。
事務局では設立にあたり、「ガバナンス策定」「デジタルフレンドリー」「eラーニング」の3つを活動の柱に据えた。アプリの利用ルールや開発環境を整備したほか、社員がDXに親しみやすい環境づくりを進めた。
しかし、事務局の立ち上げ当初は支援申請やアプリ開発があったものの、後続がなかなか続かなかった。調査から見えてきたのが、業務を改善したいという意欲はありながらも、社員の間に残る「ITへの抵抗感」だった。
そこで事務局は、社員に寄り添った伴走支援に加え、kintoneを気軽に学べるeラーニングアプリ「つまみ食いアプリ」を開発。70以上の学習コンテンツを用意し、検索AIを使って疑問をその場で解決できる仕組みも取り入れた。こうした取り組みにより、kintoneアプリのリリース数は徐々に増えていったという。
「何の話をしているかわからない」新卒2年目が見つけたDXの盲点
市民開発事務局に配属されたのが、入社2年目の蕪木文香氏だ。非IT人材だった蕪木氏は、ノーコード・ローコードや市民開発といった聞き慣れない言葉に戸惑ったという。周囲のメンバーは全員が元SE。打ち合わせで飛び交う専門用語も理解できず、自信を失っていた。
上司に相談すると、返ってきたのは意外な言葉だった。案件リーダーを任されたうえ、「蕪木さんだからこその気づきって何かありましたか」「蕪木さんだからこその価値とはなんだと思いますか」と問われたという。
そこで蕪木氏が気づいたのが、市民開発事務局と現場社員との間にある「知識のギャップ」だった。事務局では当たり前のIT知識が、現場では当たり前ではない。一方、同期との会話からは、現場に業務改善への意欲や課題意識があることも見えてきた。
元SEではないからこそ、双方の間にある距離が見える――。蕪木氏は、自身の役割を「事務局と社員の距離を近づけること」と捉え、「市民開発でつまずきやすいポイントを解決する」「新卒同期のつながりを生かす」という2つの取り組みを進めた。
初めての案件で市民開発者3人と10個のアプリを生み出す
最初に案件リーダーとして支援したのは、社員約50名のグループ内のメディア系会社だった。市民開発を担当する3名はいずれも非IT人材。蕪木氏は自身の経験を生かし、専門用語をできるだけかみ砕いて説明した。例えば「レコード」は、「Excelでいう1行分のデータ」と説明するなど、初心者の目線を意識したという。
さらに、前述のeラーニングアプリ「つまみ食いアプリ」の活用を促し、わからないことを自ら調べられる環境を整えた。その結果、同社では市民開発者3名を育成し、10個のアプリを作成。現在では、事務局の支援なしでもアプリを作成できるまでになったという。
もう一つ生かしたのが、新卒同期とのつながりだ。東急では新卒社員が1年間同じ寮で共同生活を送るため、同期同士の結びつきが強い。蕪木氏は同期が関わる業務改善案件に積極的に参加し、事務局には届きにくい現場の本音や相談を拾い上げた。
さらに同期と「デジタル何でも相談会」を開催。こうした活動を通じ、同期から6名の市民開発者を生み出した。
市民開発を広げるために見つけた「3つのポイント」
一連の取り組みを通じて、蕪木氏は市民開発を広げるために3つのポイントがあると分析する。
1つ目は「相手の目線に立つ」ことだ。初心者は想像以上に不安を抱えており、難しさを強調すると「自分にはできない」という印象を与えてしまう。相手と同じ目線に立ち、「自分にもできる」と感じてもらうことが重要だという。
2つ目は「身近な人から広げる」こと。本当に困っている人ほど、自ら相談の手を挙げないことも多い。だからこそ、身近な人との関係を生かして働きかけ、そこから市民開発者の輪を広げていく。
そして3つ目が「気づいたら行動する」ことだ。身近な業務の課題に気づいたら行動に移す。それを積み重ねることでDXを習慣化し、企業文化として定着させていくことが重要だと蕪木氏は強調した。
市民開発事務局全体でも取り組みは広がっている。発足から1年半で、稼働アプリ数は300以上、累計アプリ数は1000以上に拡大。業務削減時間は年間5000時間以上に達し、相談件数も増加しているという。
今後は「余白をつくり、次の価値へ」を掲げ、業務改善によって生まれた時間を新たな挑戦につなげ、従業員がより充実して働ける環境を目指すとしている。
東急のDXの事例が示した『詳しくない人』が持つ価値
東急の事例から見えてくるのは、市民開発の普及において、必ずしもITに詳しい人材だけがDX推進の担い手になるわけではないということだ。実際に業務上の課題を抱えている現場には非IT人材も多い。そうした社員がどこでつまずき、何を「難しい」と感じるのかを理解するうえでは、同じ目線に立てる人材だからこそ果たせる役割がある。
今回の事例では、蕪木氏が非IT人材であることに加え、新卒社員ならではの強みも生きた。既存の慣習やIT部門の常識にとらわれず素朴な疑問を持てること、さらに同期との強いネットワークを通じて、事務局には届きにくい現場の声を拾えることだ。当初は専門用語がわからず自信を失っていたことが、結果的には現場と市民開発事務局との距離を縮める力になった。
そもそもkintoneをはじめとするノーコード・ローコードツールは、専門的な開発知識を持たない社員でも業務改善に取り組めることに大きな価値がある。一方、ツールを導入しただけで市民開発が自然に広がるわけではない。東急の取り組みでも、社員が抱く「難しそう」「自分にはできない」といった心理的な壁が、市民開発を広げるうえでの課題となっていた。
そう考えると、DXを推進する組織に必要なのは、ITに詳しい人材だけではないのかもしれない。「わからない」「難しい」と感じる現場の感覚を理解し、それをITに詳しい人材へ橋渡しできる存在もまた重要になる。非IT人材だった新卒社員がDXの伴走支援にフィットした東急の事例は、市民開発を社内に広げるうえでの一つのヒントになりそうだ。



