資生堂ジャパンは、化粧品の原料探索にAIエージェントを導入し、探索にかかる時間を95%削減した。エージェントが提案する原料の数は、従来より20〜50%増えた。このエージェントは、社内文書を検索するだけのものではない。膨大な候補からどの原料が有望かを 見極める、研究員の判断そのものを再現している。
同社は2026年3月、約40部署から130人のアンバサダーを集め、全社でAIX(AIトランスフォーメーション)を本格開始させた。背景には、人口減少に伴う国内市場の停滞、激化する競争環境、従業員の年齢構造が定年退職の山に差し掛かっているという3つの課題がある。創業から150年以上、連結売上高9700億円(2025年12月期)の資生堂は、これらにどう向き合っているのか。
デジタル推進組織を「外」から「中」に移管
資生堂ジャパンは、資生堂グループの日本地域本社として、日本国内のマーケティングや販売、国内子会社・ブランドを統括する会社だ。同社はAIXを、デジタル部門の単一プロジェクトではなく、経営層や責任者が組織の壁を越えて主導する「経営マター」と定義し、組織体制も転換した。資生堂ジャパンの藤田真奈美氏(DX+AIX戦略部 部長)は、戦略的な意図について次のように語る。
「一昨年まで、資生堂インタラクティブビューティーというデジタルの戦略的子会社があり、外部から会社を動かすというスキームでDXを推進していました。現在は、CSO(最高戦略責任者)領域にデジタル組織を移管し、資生堂ジャパンの『中』から組織横断でDXとAIXを進めています」
資生堂ジャパンはDXとAIXを、「生産性の向上」「価値創造」「AIレディなデータ基盤とプロダクト」の3つの柱で推進している。厳しい競争環境の中で、限られたリソースを最大限に活用して生産性を向上させ、戦略的に新たな価値を創造するためには、データやAIを有効活用するための基盤の整備が必要になるというのが同社の考えだ。
AIXに求めるケイパビリティを藤田氏は、次のように話す。
「全従業員がAIを使い、合理的に『左脳』で進めるだけでなく、情報的に『右脳』で進める取り組みも併せて変革することが必要です。ビジネス構想力で地図を描き、テクノロジー実装力で道を引いて、クリエイティブ創造力で人を動かす『ココロが動くAIX』の実現を目指しています」
AIXを進めるためのデザインは3つのステップから構成されている。
- ステップ1:Googleの生成AIツール「Gemini」を使い、個人のワクワク感を醸成して個人の生産性向上を目指す
- ステップ2:Google Cloudの企業向けAIエージェントプラットフォームGemini Enterpriseを使ってチームのつながりを作り、現場主導で生産性を高めるとともに、技術主導でビジネスと組織を高度化する
- ステップ3:未来への価値創出を目指す
経営の意思と現場の熱量が融合した「サンドイッチ型体制」
資生堂ジャパンは、どのように「AIの日常化」を成し遂げたのか。2025年秋、同社は経営リーダー向けのワークショップを開催し、AIを活用することで資生堂ジャパンをどのように変革したいか、どうやって現場の生産性を向上させるかという方向性を確認した。次に同年の冬から春にかけて、各領域でPoC(実証実験)を実施し、「AIは現場の武器になる」という手応えをつかんだ。
PoCで実績を上げたことを踏まえ、取り組みの詳細について経営層と合意し、2026年から約40部署の責任者一人一人とディスカッションを重ねた。ディスカッションでは「なぜいまAIが必要なのか」「AIを使って各部署でどのような働き方を実現させたいのか」を複数回にわたって話し合った。「全員の心を動かした結果、2026年3月にキックオフを迎えることができました」(藤田氏)
資生堂ジャパンの國近泰史氏(DX+AIX戦略部 トランスフォーメーション推進グループ グループマネージャー)がプロジェクトの立ち上げで真っ先に向き合ったのは「変革を阻む本質的な壁」だった。過去に経験した大小のプロジェクトの成功と失敗から得た教訓は一つ。「トランスフォーメーションには、現場の心を動かす共感とコミットメントが必要ということです」(國近氏)。
この1年間のAIXの取り組みで完成したのが、「トップダウンでもなく、現場がバラバラに走るボトムアップでもない、経営の強い意思と現場の熱量が融合したサンドイッチ型体制」(國近氏)だ。この新体制で、AIXを支える現場の最前線にいるのが、約40部署から指名されて集まった130人のアンバサダーだ。アンバサダーの熱量を衰えさせないための「継続的な仕掛け」について國近氏は、次のように話す。
「定期的に領域担当アンバサダーとPDCAサイクルを回す『PDCA会』を開催したり、それぞれの部署の業務や課題に特化した実践的なハンズオンを開催したりしています。4月からスタートしたハンズオンは、既に100回以上開催しています。また社内報の『AIだより』の発行や経営リーダーズからのメッセージ動画の公開、インタラクティブなコミュニティーの形成などにも取り組んでいます」
「Geminiの月間アクティブ率は82%を超えており、3日に1回以上の高頻度で実務利用している従業員の割合は42%に達しています。またステップ2の現場主導の組織の生産性向上に向けたPoCの成果として、AIエージェントプラットフォームである『Gemini Enterprise』を使ってノーコードで開発した組織横断の情報検索エージェントを活用することで、社内資料の探索時間を約67%削減しています」
國近氏はこう成果を示した。一部の先進的な従業員だけでなく、全従業員が日常的にAIを使う状態に近づいているということだ。
業務特化型エージェントをさまざまな業務領域に拡大
資生堂ジャパンは業務プロセスや判断そのものを支援する業務特化型エージェントの開発にも取り組んでいる。業務特化型エージェントに取り組むのは、業務の高度化に向け、単純な情報検索や文書生成だけでは、現場の複雑な業務や判断に対応しきれないケースがあるためだ。
エージェントの設計では3つの柱を重視している。社内文書や専門用語を含む「業務知識の理解」、業務ルールや例外処理などの「業務判断の再現」、フィードバックを生かして業務を改善し続ける「業務改善の継続」だ。資生堂ジャパンの佐藤佳子氏(DX+AIX戦略部 データサイエンスグループ データサイエンティスト)は、次のように話す。
「業務内容によって2つのアプローチを使い分けています。一つは複雑な業務ロジックや判断を再現するための『スクラッチでの実装』、もう一つはプラットフォームを活用して迅速に改善を回す『プラットフォーム活用による実装』です。業務によって求められる内容が異なるので、それぞれに適した実装方式を選択しています」
スクラッチでの実装の例として、研究開発領域で活用される「エキス原料探索エージェント」がある。研究員が新しいテーマに基づいて原料を探索するとき、まずは膨大なデータベースから候補を絞り込む。研究員にはその中からどれが有望か、どの情報を重視すべきかを見極める高度な判断が求められる。こうした判断には個人の経験やノウハウが色濃く反映されるため、探索に膨大な時間がかかり、業務が属人化しやすいという課題があった。
こうした課題を解消するために、エージェントには3つの技術を組み込んだ。質問から仮の回答文を生成し、それを手掛かりに検索する「HyDE」(Hypothetical Document Embeddings)、キーワード検索とベクトル検索を組み合わせる「Hybrid RAG」、そして複数のLLM(大規模言語モデル)による評価だ。
「研究員の判断プロセスを再現するために、HyDEを活用することで、曖昧な依頼であっても業務文書を踏まえた検索を可能にしました。またHybrid RAGにより、専門用語や成分名の検索精度を高めています。さらに複数LLMによるレビューを組み合わせることで、候補の妥当性を多面的に評価しています。この仕組みにより、研究員の考え方や判断プロセスをエージェントに反映しています」(佐藤氏)
また業務利用では、運用性やセキュリティも重要になる。独自開発のUIからGemini Enterpriseの展開を進めるとともに、フィードバックを生かした改善を続けている。セキュアな運用環境の整備には、生成AI向けセキュリティサービス「Model Armor」とアクセス管理の「IAM」(Identity and Access Management)を使う。データ連携基盤は、閉域接続サービス「Private Service Connect」とデータベースサービス「AlloyDB」で構築を進めている。
エキス原料探索エージェントの活用によって探索時間が95%削減され、原料提案数は20〜50%増えた。効果について佐藤氏は「単なる効率化だけでなく、研究員の知識や判断を生かしながら、探索業務を再現性のある形で支援できるようになったことも大きな成果です」と分析する。
もう一つのアプローチであるプラットフォームを活用して開発したのが、EC領域の顧客対応エージェント「Commerce Insight Agent」だ。顧客が購入ケア(注1)についてCommerce Insight Agentに相談すると、顧客のニーズを確認し、商品を提案する。
「未開封商品の使用期限はいつまでですか」といった相談に対しては、エージェントがまず自然な文章で回答する。その上でFAQや使い方、使用順序などの関連情報を併せて示す。定期購入をはじめとする各種の手続きについても、エージェントが顧客の目的を理解し、必要なページを案内する。
アーキテクチャは、顧客対応向けエージェント基盤「Gemini Enterprise for Customer Experience」やデータウェアハウス「BigQuery」、エージェント開発基盤「Gemini Enterprise Agent Platform」(旧Vertex AI)などを組み合わせたものだ。
「2つのエージェントの対象となる業務は異なりますが、共通の思考で設計されています。現場の業務知識や文書を理解し、業務判断を再現し、継続的な改善へとつなげます。業務特化型エージェントの価値は、単なる作業の自動化ではなく、現場の知識や判断を生かした継続的な改善の仕組みにあります。今後もこうした考え方を、さまざまな業務領域に広げたいと思っています」(佐藤氏)
(注1)化粧品・医薬部外品の広告における「購入」は、メラニンの生成を抑えてシミ・そばかすを防ぐことを指し、生まれ持った肌の色を白くすることではない。
美容部員とAIで描く次世代ビューティー
藤田氏は、今後のAIXのポイントを2つ挙げた。一つは、変革の全体像(デザイン)を描き、進め方を計画すること。もう一つは、合理的でサイエンティフィックな部分と、情緒を含んだ情熱的な部分を掛け合わせ、両輪で進めることだ。さらに一歩進めて、新しい価値をどのように創出するかも検討している。
資生堂は「BEAUTY INNOVATIONS FOR A BETTER WORLD」をミッションに掲げ、2005年に制定したコーポレートメッセージ「一瞬も 一生も 美しく」を掲げている。その美の伝え方が、いま変わろうとしている。
「資生堂の強みは、全国に美容部員がいて、化粧品の話やアドバイスをしながら購入につなげることです。しかし、『店員とあまり話したくない』というお客さまもいるので、AIと会話することで、何が自分に合っているのか、具体的に何が良いのかを提案できる世界を目指しています」



