「勝つために、究極のAIを作る必要はない。凄腕人を開発の輪に入れろ」。こう力強く言い切るのは、台湾で元デジタル担当大臣を務めたオードリー・タン氏だ。米OpenAIやGoogle、中国DeepSeekなどが莫大な資金とエネルギーを投じ、AIの性能競いは世界規模で激化している。巨大モデルの性能向上を競う米中に比べ、日本はこの開発競争で後塵を拝しているとの見方も強い。しかし、戦場がデータセンターを基盤とするクラウドから、ロボットやデバイスが動く「物理世界」(フィジカル)へとシフトした瞬間、日本の立ち位置は一変する。
究極のAIよりエッジAI 日本が勝つ領域
タン氏は「重要なのは、究極のAIを作ることではなく、どれだけ早くそれぞれの領域に入り込めるかだ」と強調する。多くの企業は今、社会の中で特定の領域に特化したバーティカルなAIを作ろうとしている。それは弁護や通訳かもしれないし、営業や業務支援かもしれない。これらは毎日機能するものでありながら、それほど莫大なエネルギーを必要とするわけではない。こうしたAIを、できるだけユーザーに近いエッジ側のコンピュータで演算させる。そうすれば、サーバにデータを送る必要がなくなり、監視やプライバシーの問題も起きない。
タン氏はこれを「電気のようなものだ」と例える。「電気はあらゆる動力源、すべての車、あるいは超小型原子炉のような形で社会に浸み込まれていなければならない。送電網が整備されていなければ、電気を使うことができないのと同じだ。エッジ側にAIを組み込んでおかなければ、必要な機能を利用できなくなる」。日本は今、AIにおいてその電気が普及する瞬間を迎えているという。日本には非常にユニークでパワフルな文化的想像力があり、それはスーパーインテリジェンスやシンギュラリティといった超越的な存在が必ずしも必要ではない。むしろ、人々が水平につながり、協力し合うことでさまざまなことができ、全体が勝者になれるWin-Winな状況が作れるはずだと語る。
「現場の人間をAIの輪に入れよ」 19兆円市場を狙う唯一の道
タン氏は以前、飲食関係のイベント「Sushi Hackathon 2025」で米スタンフォード大学を訪れた。飲食に限らず、製造業や農業、物流など、現場でAIを活用する際の注意点は何か。タン氏は「現場に近い人たちのインプットをテクノロジーに取り込むことが極めて重要だ」と指摘する。「単にその人たちのためにAIをデザインするのではなく、その人たちと一緒にAIを作らなければならない。現場のためとはいえ、一方的にAIを作ってしまうと、例えば飲食なら料理人の人たちに『これを使え』と強制する形になってしまう」。AIの処理ループは非常に高速で、一度動き出すと方向を変えるのが難しく、人間を単にそのプロセスの一部に組み込むだけでは意味がない。そうではなく、AIを人間のループの中に入れるべきで、実際の人間がニーズを定義し、AIはその補助的な役割を担う形でなければならない。
「例えば、誰かが何か変更をリクエストした際に、元のソリューションにAIが固定化されていてはいけない。固定化されてしまうと、ある時点でそのソリューション自体から新たな問題が発生し、持続可能性を保てなくなる」。だからこそ、現場に近い人々が常に継続的に関わり続けることが必要不可欠だ。その意味で、実際の飲食関係者や、凄腕人のような方々にAI開発・実装プロジェクトへ参加してもらうことは、とても重要だと考えている。
なぜ「上からの強制DX」は失敗するのか
日本のデジタル化の進展について、2021年9月にデジタル庁を設置したが、一部では「動きが遅い」との声もある。タン氏は「指数関数的な成長というのは、初期段階ではどうしても動きが遅く見えるものだ」と指摘。パンデミックの最中、日本のリーダーシップ層は「従来の『ハンコ文化』は安定した世界では機能するが、カオスのような状況下ではもっと素早く順応しなければならない」と指摘したと述べる。そこで重要なのは「誰も取り残さない」ということで、慶應義塾大学の岸博幸教授も「デジタルは『箸』のようなものだ」と話していた。つまり、テクノロジーを良いものとして使いつつ、誰一人取り残さないという精神が大切だ。
「台湾も同じだが、単にテクノロジーをデザインして、そのループに入るよう人々に強制することはできない。日本でも台湾でも、そうした強制的なやり方はうまくいかない。なぜなら、人々は会話の完全性やプライバシーを大切にしており、政府に監視されたくないと考えているからだ。補助いデータなども、誰が何を補っているか政府にすべて把握されることには抵抗がある」。だからこそ、他の一部の国で通用するような「一元化されたソリューション」は、日本や台湾では受け入れられない。
シリコンバレーにルールを決めさせるな 日本が担うべきリーダーシップ
プライバシーを守りながらデジタル化を進めるには、何が重要か。タン氏は「データポータビリティ(移転性)の義務化」が重要だと説く。情報のスーパーハイウェイ(高速な情報通信網)を作る際には、そこから降りるための「オフランプ」も用意しておかなければならない。ソーシャルネットワークであっても、他のネットワークへ自由に移行できるようにする必要がある。自分のデータを持ち運び、新しい友人や新たな生活圏へ移れるようにしておくこと。例えば米ユタ州やカリフォルニア州では、そうした移転性を義務付ける法律を整備している。そうすれば誰も特定のプラットフォームに「ロックイン」されることはない。
コミュニティのニーズやプライバシーにより良く対応するためには、シリコンバレーのビッグテック企業だけにルールを決めさせるのではなく、日本のような国がリーダーシップを担えるはずで、デジタル庁はその最前線を進むことになる。タン氏は「私が日本に行くたびに使う『Visit Japan Web』も良い例だ。スマホで完結し、インターネット接続がない状態でも表示でき、私がいつアプリを開いたかを政府が追跡できないようプライバシーも守られている」。このアプローチと同じで、最初は遅く感じるかもしれないが、全体から「集合的知性(コレクティブ・インテリジェンス)」を集めることができれば、ある時点で指数関数的に伸びる時が必ず来ると思う。
SNSの分断に企業はどう勝つか 自社AIに組み込む「日本型バランス感覚」
SNS上で似た意見ばかりに触れることで自分の考えが正しいと思い込む「エコーチェンバー」など、ソーシャルメディアの問題がより深刻になっている。企業はこの問題にどう向き合えばいいのか。タン氏は「ソーシャルメディアの悪影響によって、今の米国では社会やコミュニティの『分極化(分断)の濃度』が異常な高水準に達している。環境問題におけるCO2濃度になぞらえて表現されるほどで、まさに毎分毎秒、人々の分断と対立が激化している状態だ」と指摘。
「オープンなソーシャルメディア上では、過激で攻撃的な言葉ほど拡散されやすく、企業もまたその不毛な『拡散競争』や風評リスクに巻き込まれがちだ。一方で、日本市場にはまだ冷静な対話が成り立つ状況が残されている」。企業が学ぶべき解決策は非常にシンプルで、日本で培われてきた「多角的な視点を尊重し、偏りを避けるバランス感覚」を自社のコミュニケーションやテクノロジーに組み込むことだ。例えば、社内で運用する顧客対応AIや社内用AIエージェントに対し、一方の過激な意見に偏らない「多様な視点を考慮するトレーニング」を施す。このバランス感覚をAIに学習させれば、極端な声に流されず、多様な価値観を持つ顧客や社員と誠実な関係を築けるようになる。アルゴリズムの分断に引き込まれず、対話の多元性(プルーラリティ)を重んじる姿勢こそ、AI時代の企業に求められる真の強みなのである。



