今治空襲から81年 体験伝える新居田会長の思い
今治空襲から81年 体験伝える新居田会長の思い

終戦から81回目の夏を迎え、愛媛県今治市では1945年4月から8月にかけて3度の空襲があり、575人以上が犠牲となった。「今治市の戦災を記録する会」の新居田大作会長(91)は、記録集の刊行や慰霊碑の設置に尽力し、戦争体験を後世に伝え続けている。

3度の空襲と少年時代の記憶

新居田さんは当時、別宮国民学校(現・別宮小学校)の4年生だった。1945年4月26日の朝、母親らと自宅庭の防空壕に入った。腹に響くような音で米軍のB29爆撃機の接近を感じ、真上に来たと思った後、爆発音とともに突き上げられるような揺れに襲われた。

静かになり外に出ると、爆風で飛べなくなったスズメが地面に落ちていた。国鉄今治駅の近くには大きな穴があり、近づくと「危ない」とどなられた。不発弾によるものだった。

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12日後の5月8日朝には、さらに激しい爆撃があった。前回より大きい1トン爆弾が使われたとされ、身の危険を強く感じた。この後、親類を頼り、母親らと今治沖の大島に疎開した。

最後の空襲と原爆の閃光

最後の空襲は8月6日午前0時過ぎにあり、爆撃音が大島まで聞こえた。今治方面の空が真っ赤に染まり、無数の焼夷弾が落とされるのが見えた。夜が明け、港を眺めていたとき、遠くで黄白色の閃光が走った。母に「雷が光った」と伝えると、「天気のいい日に雷は鳴らんでしょ」と言われた。広島に落ちた原爆の閃光だった。

因縁の不発弾との再会

戦後、大学を卒業し、今治市職員として働いた。都市整備局長として今治駅の連続立体交差化事業にも取り組んだ。1986年12月、駅前で「やっかいなものが出てきた」と連絡が入った。子どもの頃に目にした不発弾だった。「因縁なんですかね。あの不発弾が、また目の前に現れた」と振り返る。

自衛隊員が処理にあたったが、時限爆弾だったため作業は難航した。ドライアイスで爆弾を凍らせての作業となり、6日目にようやく解決したという。

慰霊碑設置と記録活動

69歳で市の収入役を退いた後、市の戦災を記録する会を設立し、空襲の調査と記録に尽力した。体験談を集めた記録集「今治市の戦災 あなたに伝えたい」は第4集まで発行し、昨年2月にDVDも制作した。

慰霊碑の設置にも力を入れた。四国霊場五十五番札所・別宮山南光坊の山門そばには「今治市戦災の碑」が立つ。設置は「軍人と違い、民間の犠牲者は記録がなく、追悼する場もないのが気の毒だった」との思いからだという。

新居田さんは「生きている間は自分の体験を伝えていく」とし、「多くの犠牲者がいて、復興に向けて苦難があったことを忘れないでほしい」と願う。

最後の今治空襲から81年となる6日午前9~10時、市戦災の碑の前で追悼の献花が行われる。

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