NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』第23話(6月14日放送)で、安芸吉田郡山城の軍議において、宇喜多直家が「今こそ一気に上洛し、天下を掴むべき」と熱く進言する場面が描かれた。これに対し、総大将・毛利輝元は冷静に「そこに大義はあるのか」と問い返した。このシーンは、戦に大義を求める輝元の慎重な姿勢を印象づけるが、史実はさらに複雑である。
上洛の真の意味と輝元の本音
輝元にとって上洛とは、単に軍勢を率いて京に上ることではない。既に畿内を押さえ播磨まで進出した織田信長の軍勢を蹴散らしての上京であり、直家の進言は「中国8カ国を総動員して信長と決戦しよう」という宣言に等しい。しかし、輝元にはそのような戦をする気は毛頭なかった。むしろ、毛利氏にはその軍事力も体制も整っていなかったのが本音だろう。
1563年、父・隆元が急死し輝元が家督を継いだ時点で、毛利氏はすでに中国地方の覇者になろうとしていた。祖父・元就が一代で築き上げた版図を、叔父の吉川元春と小早川隆景という二人の傑物が支えていた。本家である毛利家を「両川」が支える構造は、三本の矢の逸話とともに、毛利氏が和を尊んだ理想的な体制というイメージを与えている。
“名家”ゆえの複雑な家臣団
戦国大名の中には出自や由緒が曖昧な者も多いが、毛利氏は由緒正しい名家である。その祖は、源頼朝を支えた大江広元の四男・毛利季光。季光は宝治合戦で三浦氏に与して滅んだが、四男・経光は乱に関与せず生き延び、その子孫が安芸国吉田荘を所領として続いたのが安芸毛利氏である。
しかし、歴史が長いだけに譜代の家臣や一族も多く、同格の国人領主も多数存在した。その中で元就が実力を発揮してトップに立ったにすぎず、家臣団の状況は複雑極まりない。河合正治「戦国大名としての毛利氏の性格」(『戦国大名論集14』吉川弘文館、1984年)によれば、毛利氏の家臣団は大きく四つに分類できる。
四つの家臣団区分
第一に庶家。坂氏・有富・麻原・中馬・福原・河本など、南北朝に惣領家から分かれた一族で、必ずしも一枚岩ではなく、元就の力で徐々に組み込まれたが血筋が近い分だけ扱いも微妙だった。
第二に譜代・近臣。惣領家や庶家の家臣だった飯田氏・粟屋氏・赤川氏・渡辺氏ら、さらに小さな庶家やその分家から出た兼重氏・上山氏・光永氏・平佐氏・長屋氏、付近の小領主である国司氏・井上氏・児玉氏など。古くからの家臣であるこの層は、代官や奉行として行政・司法の実務を担い、毛利氏の権力を実際に動かしていた。
独立した姿のまま毛利の旗下に
第三に、毛利氏に従属した国人・土豪層。元就の時代に従属した者たちで、吉川氏や小早川氏も含まれる。彼らは毛利氏の旗下にありながら、ある程度独立した勢力を維持していた。第四に、新たに服属した地域の有力者。毛利氏の拡大に伴い編入されたが、統制は容易ではなかった。
このように、毛利氏の家臣団は「三本の矢」のように団結していたわけではなく、むしろ複雑な利害関係が渦巻いていた。輝元は、こうした家臣団をまとめ上げる難しさを痛感していただろう。
広大な版図はあっても「手足」ではなかった
輝元の支配領域は中国地方8カ国に及んだが、それは必ずしも一枚岩ではなかった。吉川元春と小早川隆景という両川が強力な独立勢力として存在し、彼らが輝元の意向に必ずしも従うとは限らなかった。また、宇喜多直家のような外様の有力大名も、毛利の旗下にありながら独自の動きを見せていた。
さらに、毛利氏は四方に敵を抱えていた。東には織田信長、北には大友氏、西には長宗我部氏、そして内部には不穏な家臣団。輝元の立場は、常に「自衛には動くが、攻勢に転じない」というものであり、それは現実的な選択だった。
どう動いても“詰む”状況
輝元が慎重だった理由は、単に臆病だったからではない。どのように動いても、毛利氏の存続が危ぶまれる状況だったのだ。信長と全面戦争をすれば、たとえ勝っても疲弊は避けられず、他の勢力に隙を突かれる。かといって、信長に従えば毛利の独立は失われる。輝元は、まさに「動かない大義」が揃いすぎていたのである。
結局、輝元は本能寺の変でも動かず、関ヶ原の戦いでも西軍に属しながらも積極的に動かなかった。それは、複雑な家臣団と広大な版図を抱えるがゆえの、苦渋の選択だったと言える。



