敦賀市の梅澤みち子さん(93)が、10~13歳頃に体験した戦争の記憶を詠んだ連作「大東亜戦争の想(おも)い出」を本紙の「福井よみうり文芸」欄に寄せた。多感な少女の目に映った戦時下の日常を鮮明に描写している。
少女時代の4年間を9首に
梅澤さんは1932年、新潟県の旧栖吉村中沢(現長岡市)に生まれた。国民学校初等科(小学校)の4年生だった42年から、長岡高等女学校1年の時に終戦を迎えた45年までの4年間に、見聞きした出来事を9首の歌に詠んだ。
「俄(にわか)病院になりたる如(ごと)し体育館に 傷痍(しょうい)軍人 数多(あまた)臥(ふ)し居る」——42~43年頃は負傷兵を収容する病院が足りず、学校の体育館に多くの兵たちが寝泊まりしていたという。
食料不足と疎開児との通学
「戦時下の午後の授業田の草取りカラス貝取り又 蝗(いなご)取り」——食料不足のため、午後は授業がなく、水田の草取りに駆り出された。子どもたちは貝やイナゴを集め、ゆでて食べた。何よりのごちそうだった。
「東京で焼け出されたる疎開児と 下駄(げた)はき通学長岡高女へ」——高等女学校へ進学後、東京から疎開してきた友人と、長岡まで片道6キロの道のりを毎日、歩いて通った。しかし憧れの学校も、勉強に打ち込める環境ではなかった。上級生はミシンで軍服を縫い、下級生はボタン付けに従事。声を張り上げ、竹やりを振り回す軍事教練を受けた。
終戦と進駐軍、平和への思い
「厳粛に『大本営発表』ラジオから戦果のあまたつつしみて聞く」——ラジオのニュースは華々しい戦果を伝えるが、「どうやら事実を伝えていないということが、子どもにも暗黙のうちにわかっていた」と振り返る。
「広島に新型爆弾投下され 遂(つい)に玉音放送の流る」——終戦を迎え、高等女学校は新制高校に変わった。学校で歌人・与謝野晶子について学び、短歌を詠むようになった。「晶子は日露戦争のさなか、弟の身を案じて『君死にたまふことなかれ』と堂々と戦争を批判した。こんな女性がいたのだと知って、感動した」
「屯(たむろ)せる進駐軍に『ギブミーチョコ』両手を出しき我等(ら)女学生」——進駐軍の兵士に片言の英語でチョコレートを求める女学生らを、近くで見守っていた教師の表情が忘れられないという。「女学生が連れ去られてしまうかもしれない、どうか無事で終わってくれ、と祈るような気持ちだったのでしょう」
卒業後、結婚し、63年に敦賀市へ移住した。原子力発電所で働く人たちのために下宿を営みながら、短歌を詠み続けてきた。「戦争は二度とあってはならない」と力を込めた。



