1945年8月、ソヴィエト連邦の対日参戦は日本の敗戦を決定的なものにした。歴史研究者の河西陽平氏によると、当時の外務省はソ連の参戦を阻止しようと尽力したが、日ソ会談での交渉は失敗に終わった。この背景には、日本の情報がソ連側に筒抜けだったことや、交渉担当者の対応のまずさがあった。
ヤルタ会談後の日本の情勢認識
1945年、米英ソ首脳によるヤルタ会談が開かれ、ドイツ降伏後、日本の敗色が濃厚となる中で、ソ連の対日参戦の可能性は参謀本部や関東軍情報部、モスクワの日本大使館員らの間でも議論されていた。しかし、その時期については意見が分かれ、一部には参戦はあり得ないとする声もあった。
一方、一般の日本人の中には日ソ開戦を避けられないと感じる人々もいた。5月20日にソ連へ発信された電報では、協力者「イグチ」の情報として、日本政府関係者はソ連の参戦がないと確信しているほか、国民の間にはソ連が日本の対米戦を密かに援助し、戦争からの離脱を助けてくれるという噂が広がっていると伝えられた。つまり、国民のソ連に対する態度は、将来の敵と見る深刻な見方と、戦争終結に利用できると甘く見る見方に二分されていた。
外務省の対応と情報漏洩
対ソ交渉の矢面に立った外務省関係者の間でも、認識の違いがあった。駐ソ大使の佐藤尚武は戦後、ソ連との関係維持と対米英和平へのソ連協力を求める東京の要請を痛烈に非難した。しかし、モロトフから中立条約の不延長を通告された当時、ソ連が直ちに日本に戦争をするとは考えていなかったようだ。条約の有効期間は5年で、1946年4月25日の失効までに対ソ関係を改善できると判断した可能性がある。
一方、東京の外務本省は楽観視していなかった。NKGBの東京駐在員は5月23日の電報で、日本政府がソ連の仲介で米国と講和しようとする動きを詳しく伝えた。情報提供者「イシバラ」は、1月19日の会談で知り合いの陸軍中将から、1944年5月以降、満洲の関東軍がフィリピンや千島列島に移送されていること、フィリピン陥落後、ソ連の満洲侵攻の危険性が高まっていることを報告していた。この「イシバラ」は日本陸軍だけでなく外務省にもパイプを持つエージェントだった。
このように、日本の対ソ交渉は情報漏洩と交渉力不足で失敗し、ソ連の参戦を阻止できなかった。



