戦時下の言論弾圧が俳壇にも及んでいた事実はあまり知られていない。1940年の「京大俳句事件」に始まる弾圧では44人が検挙され、俳人たちは戦意高揚を詠むか、萎縮するかを迫られた。本山町出身の右城暮石(1899~1995年)が戦後親しくした仲間には、検挙された人もいる。多くを語らなかった暮石だが、1945年には句の記録がない。
新興俳句と弾圧の始まり
俳誌「京大俳句」の創刊は1933年。刑法学説を巡って法学者の滝川幸辰が京都大学を追われ(滝川事件)、プロレタリア作家の小林多喜二が特高警察の拷問で死亡した年でもある。平畑静塔(1905~97年)、波止影夫(1910~85年)ら20歳代が中心となり、戦後、暮石を句会に誘った西東三鬼(1900~62年)、高知市出身の仁智栄坊(1910~93年)、「戦争が廊下の奥に立つてゐた」で知られる渡辺白泉(1913~69年)も会員だった。
「花鳥諷詠」の伝統俳句を超え、社会や生活、恋愛、「無季」もよしとする新興俳句は、自由を求める「戦争がイヤでたまらない者」(三鬼)のささやかな抵抗だった。だが、京大俳句会員は1940年2月14日、静塔ら8人が検挙され、8月の三鬼で計15人に上った。俳誌は廃刊、報道は禁じられた。
検挙された俳人たちの証言
三鬼に師事した三橋敏雄(1920~2001年)は「警戒心なんてないんです。(昭和)13年(1938年)頃、小さな句会にも特高が来た。別に悪いことをやっていると思っていないので、みんなびっくりした」と振り返る。本山町に「蜩に終りし戦にはあらず」の句碑がある鈴木六林男(1919~2004年)は事件当時、陸軍兵で検挙されることはなかった。新興俳句は「天皇制の否定」と無理やり結びつけられた、と見る。
「自由主義は共産主義の温床であり、反戦的俳句をもって啓蒙」と、特高は決めつけていた。三鬼の句「昇降機しづかに雷の夜を昇る」について、特高は「雷の夜=国情不安」「昇降機=共産主義思想の高揚」を示す暗号だと解釈した。起訴猶予となり、警告された。「謹慎して、こんな俳句は作らん方がいいですよ」。影夫が入れられた京都・太秦署には、俳優の志村喬がいた。
事件後の影響と暮石の戦争俳句
事件を受け、日野草城(1901~55年)は俳壇を去る。戦後、「官憲と特別な関係にある某氏から脅迫的勧告を一再ならず受けるに及んで(略)筆を折る決心をしました」と語った。検挙された秋元不死男(1901~77年)は俳句を「戦争を嫌う文学、平和心に宿る文学」と述べる。事件のあった年に暮石が詠んだ唯一の戦争俳句「硝煙を一縷涼しと征き行くか」が残る。三鬼、静塔ら苦難を歩んだ面々と交わった戦後もほとんどない。戦時中の思いを、初の句集「声と声」(1959年)に「世の激しい動きにも、無力、なすところなく押し流されたにすぎない」と短く記した。
京大俳句事件の概要
京大俳句事件は、時代を反映した生活や反戦・厭戦を題材にした「新興俳句」の俳人への言論弾圧事件。1940年2月14日、治安維持法違反を理由に、平畑静塔ら8人、5月に渡辺白泉ら6人、8月に西東三鬼が検挙。1941年2月には東京の秋元不死男ら13人、同11月、山口で10人、1943年6~12月、鹿児島、三重、秋田で計6人。うち13人が懲役2年の有罪判決を受けた。



