日本は石油を確保するため南方へ戦線を広げたが、その石油を本土へ運ぶ民間輸送船の護衛は後回しにされた。ルポライターの昼間たかしさんによると、第1海上護衛隊の護衛対象は商船約1000隻だったのに、護衛艦はわずか18隻だった。戦争末期には、船団を大型化しても米軍の攻撃を防げず、輸送船は次々と海に沈んだという。
「広大な占領地」と「貧弱な海上輸送」の矛盾
太平洋戦争で日本が敗れた大きな一因は、補給の軽視にあった。開戦の大きな理由は資源であり、米国の経済封鎖で石油の輸入が途絶えたため、南方の油田地帯を確保するために開戦を決意した。緒戦では日本軍は勝利を重ね、南方の資源地帯を占領したが、戦線拡大でシーレーンは長大化。米軍の反攻で商船が次々と沈められ、補給網は急速に細っていった。
海軍は艦隊決戦を優先し、海上輸送の防衛に十分な戦力を振り向けなかった。開戦前、日本は約600万総トンの船腹を保有する世界第3位の海運国だったが、終戦時には150万トンまで減少した。日本殉職船員顕彰会によれば、戦争に参加した船員の戦没者は推計43%に達し、陸軍の約20%、海軍の16%を大きく上回った。民間船員が軍人を上回る割合で命を失ったのである。
商船1000隻に、護衛艦はわずか18隻
開戦前、海軍が算出した商船の損失予測は年間80万トンで、第一次大戦の英軍の実績を参考にしたものだった。しかし英軍の船団護衛制度は当時より遥かに整備されており、その違いを考慮しない予測には無理があったとされる。
1942年4月、第1海上護衛隊が編成されたが、護衛対象の商船は1000隻あまりに対し、護衛艦は18隻のみ。しかも特設砲艦や旧式駆逐艦が中心で、無護衛の船団が全体の3割に及んだ。損失予測は1942年末には崩れ、1943年9月には総保有量が550万トンを切った。
ヒ号船団とミ号船団の悲劇
南方から本土への石油輸送を担ったのがヒ号船団とミ号船団だった。ヒ号船団は1943年7月からシンガポールと門司を結び、大型・高速のタンカーが優先投入された。ミ号船団は1944年4月に設けられたボルネオ島のミリと本土を結ぶルートで、低速で雑多な船も加わった。
護衛不足を補うため、海軍は船団の大規模化を進めたが、その船団も航路も十分に守れる態勢はなかった。戦争末期には、輸送船は米軍の攻撃を防げず、次々と海に沈んでいった。補給を軽視した日本軍のもと、民間輸送船と船員たちは過酷な運命をたどったのである。



