大河ドラマ「豊臣兄弟!」(NHK)で、明智光秀(要潤)が本能寺の変を起こし、織田信長(小栗旬)を討つ場面が描かれた。光秀には丹波攻略を共に成し遂げた盟友・細川藤孝(亀田佳明)がいたが、藤孝は光秀の加勢要請を拒否。その後、石田三成の大軍に囲まれ絶体絶命の危機に陥るも、天皇の勅命によって九死に一生を得た。経営史学者で系図研究者の菊地浩之氏が、細川家の生き残りの戦略を分析する。
明智光秀の盟友だった細川藤孝
細川藤孝は、もともと明智光秀の主君だった可能性が高い。ルイス・フロイスの『日本史』には「兵部太輔と称する人(細川藤孝)に奉仕していた」と記され、『多聞院日記』にも「細川の兵部大夫(藤孝)が中間にてありし」とある。両書とも信憑性が高く、光秀は当初、藤孝の家臣であり、後に足利義昭の家臣になったと解釈すべきだと菊地氏は指摘する。
光秀は信長の命で、三女のたま(細川ガラシャ)を藤孝の嫡男・細川忠興に嫁がせていた。二人の間には孫もいた。本能寺の変後、光秀は使者を送って藤孝に行動を共にするよう要請したが、藤孝はこれを拒否。出家して幽斎玄旨と名乗り、忠興とともに隠棲。さらに、息子の嫁であるたまを離縁させ、幽閉してしまった。
足利将軍の最側近だったが信長に乗り換え
実は藤孝には似たような前科があった。彼は室町幕府最後の将軍・足利義昭の最側近でありながら、義昭と信長が対立すると信長に付いたのだ。藤孝は幕臣・三淵晴員の次男として生まれ、細川家の養子となった。母は学者・清原宣賢の娘で、12代将軍・足利義晴の子どもを懐妊したまま晴員に下げ渡されたとの説もあり、藤孝は義晴のご落胤とも言われる。
藤孝は当代一流の歌人で「古今伝授」を伝えられ、能楽に堪能。包丁さばきに優れ、大男で武芸に秀で、怪力の持ち主だった。剣術を塚原卜伝、弓術を波々伯部貞弘に学び、弓馬故実を武田信豊から相伝された、いわば「資格マニア」だった。
絶体絶命のピンチ、芸は身を助く
本能寺の変後、羽柴秀吉は藤孝・忠興父子が光秀に与しなかったことを高く評価した。しかし、後に石田三成と対立した際、細川家は田辺城に追い込まれた。三成軍1万5000に対し、城兵はわずか500。絶体絶命の中、藤孝は天皇に和歌を献上。その歌才を惜しんだ正親町天皇の勅命により、三成は攻城を断念せざるを得なかった。芸が身を助くとはこのことだ。
細川家はその後、肥後藩主となり、後に首相も輩出する名門として存続した。藤孝の政局を見抜く力と、文化人としての才覚が、家を存続させたのである。



