ミャンマーには太平洋戦争(ビルマ戦線)の痕跡が驚くほど残っている。独立以来続く内戦などで置き去りにされた遺物は、80年前の記憶をリアルに語りかけてくる。ビルマと呼ばれていた当時、13万人を超える日本兵がビルマ戦線で戦死した。令和の今でも無謀な計画の揶揄に使われるインパール作戦は、軍幹部が食料の補給体制を無視して断行し、壊滅的な犠牲を招いた。
チンドウィン川西岸のカレーワ周辺に残る戦跡
北西部を流れるチンドウィン川の西岸にカレーワという町がある。日本軍は主にその付近からインドのインパールを目指した。インダインジーという集落には野戦病院が置かれた。2018年に集落で会った89歳のおじいさんは「ケイレイ!」とポーズを決めてくれた。軍医だったと思われる「イチカワサン」が子供たちと遊んでくれたという。
カレーワ近郊の手投げ弾は、今も危険な状態で放置されている。「オチャヲノミナサイ」「ソコニスワリナサイ」「(敵機の姿に)ヒコーキイッ!」。昔覚えた言葉がすらすらと出てくる。病院の跡地はミャンマー軍の駐屯地になっていた。
インパール作戦の無謀さを実感する道
カレーワと約20キロ・メートル西のカレーミョの間の道には日本軍の監視所があった。住民が斜面で拾ったさびた手投げ弾と砲弾は、不発弾の危険な状態だった。カレーミョの先は急勾配の山道になり、遠くの地平まで山々が連なる。インパールはさらに奧にあり、作戦のでたらめさを実感した。
戦後は日本で事業を営み、タイで余生を送る91歳の老人を12年暮れに訪ねた。「悲惨で全滅に近い戦闘だった」「(白骨街道といわれた退路は)栄養失調やマラリアで20~30メートルおきに死者や死にかかっている人が倒れていた」。おそらく何も残っていなかった野戦倉庫の前で「コメをください」と拝んでいた兵士がいたという。1年ほどして老人の訃報が届いた。
ラカイン州シットウェーと内戦の影響
ラカイン州シットウェーは軍歌で知られる加藤隼戦闘隊が駐屯していた。柱がえぐれた寺院があり、僧侶は「日本兵が隠れているとみた英軍機が銃撃した痕」と語った。今、州内は内戦が続き、中国が経済特区と港湾の開発を進めている。
ミャンマーの内戦は独立以来続いており、太平洋戦争の遺物が適切に保存されないまま、風化と破壊にさらされている。しかし、現地の人々の記憶や証言は、戦争の実相を現代に伝える貴重な手がかりとなっている。



