真珠湾攻撃を指揮した連合艦隊司令長官・山本五十六はどんな人物だったのか。歴史家の保阪正康さんは「戦後に山本のイメージを決定づけたのは阿川弘之さんが書いた小説『山本五十六』。だが、阿川さんは初版を大幅に書き直すはめになった」という。戸髙一成さん、大木毅さんとの鼎談をお届けする――。
空母が半分沈む計算でも作戦実行
戸髙一成さんによれば、真珠湾攻撃部隊の指揮官は南雲忠一で、南雲は当時の艦隊派の長老だった。最終的には軍令部が白旗を揚げて真珠湾攻撃が採用されたが、図演をやると6隻の空母のうち必ず半分が沈むと出た。山本五十六も、あんなにうまく行くとは露ほども思っていなかっただろうという。
むしろ無理な攻撃だが、この作戦で南雲が危ない目に遭ってもいいと思っていたかもしれない。そう思っていても不思議でないほどに艦隊派を嫌っていたと戸髙さんは指摘する。
山本五十六は戦死して「神話」に
保阪正康さんは「やってみせ、言って聞かせて、させてみて、ほめてやらねば、人は動かず」という上司の鑑のような言葉を残した山本像とは随分違ってきますねと述べる。大木毅さんは「それは山本自身の言ったことではないらしいですが」と笑う。
実際、太平洋戦争の時の海軍は挙げて山本五十六を支持していたようなイメージを持ちがちだが、艦隊派系の人や「鉄砲屋」と称していた砲術科の人たち、航空の非山本閥の人などは、必ずしも山本のことをよく思っているわけではない。
それは戦後も続いた。真珠湾攻撃が成功して山本が国民の大英雄になり、その後も大本営発表で勝ち戦を続けていることになっていながら、悲運の戦死を遂げて「山本五十六神話」ができてしまった。海軍側の人たちも、今さら山本の悪口を言っても仕方がなかった。
戦艦大和の艦長も山本を批判した
大木さんは『歴史と人物』(中央公論社)という雑誌で「誰が真の名提督だったか」というテーマの座談会をやったことがある。将官から大佐クラスだった人たちに集まっていただき、軍令部総長や連合艦隊長官まで俎上に載せてその真価を議論してもらったところ、松田千秋さんが山本五十六の悪口を言ったという。海軍軍人には珍しい、先輩に対して歯に衣着せぬ批評で、貴重な記録だと大木さんは語る。
遺族から抗議を受けた『山本五十六』
阿川弘之の小説『山本五十六』は初版が絶版となり、大幅に書き直された。山本の愛人について露骨に書いたことが問題視され、遺族から抗議を受けたという。
司馬遼太郎は海軍を理想視した?
小説は海軍の良いところを描き、戦後の山本像に大きな影響を与えた。しかし、その一方で軍部内での評価や実際の人物像との乖離も指摘されている。



