天正10年(1582年)6月2日未明、本能寺の変で織田信長が討たれた直後、羽柴秀吉は備中高松(岡山県岡山市)から畿内へ引き返し、明智光秀を山崎の戦いで破った。いわゆる「中国大返し」は、驚異的なスピードの大軍行として語られてきたが、勝敗を分けたのは行軍の速さだけではなかった。江戸文化風俗研究家の小林明氏が、中国大返しのキーパーソンとなった“3人の武将”に迫る。
「秀吉は知っていた」説の起源
本能寺の変がNHK大河ドラマで描かれるたび、「羽柴秀吉は本能寺の変が起きることを知っていたのか?」が話題となる。知っていたからこそ信長の死に備えており、布陣中の備中高松から迅速に「大返し」できたというわけである。この「知っていた説」は、本能寺の変から4カ月後の天正10年10月に著された『惟任退治記』にすでに登場する。
同書には「(光秀は)二万余騎の軍勢を編成し、備中に向かわずに密かに謀叛を企てた。これは発作的な恨みではなく年来の逆心からであると、とっくに見抜いていた」と記されている。著者は秀吉の右筆(文書を代筆する文官)だった大村由己。主語が曖昧だが、「秀吉は知っていた」と読むのが妥当だろう。由己は秀吉に都合の良いことを書き連ねる傾向があり、光秀には逆心があったと狡猾さを印象づけ、秀吉はそんなのはお見通しと持ち上げた感がある。
隠しルートとその論争
この説を補足したのが史学者の藤田達生氏である。藤田氏は、羽柴には京から近江(滋賀県)を抜けて丹波(兵庫県東部)に行き、そこから但馬の竹田(兵庫県朝来市)を経て姫路(同県姫路市)に至り、さらに無事に西国へ向かう独自のルートがあったと述べている(『夜久文書』/年未詳6月5日付羽柴秀長書状より)。本能寺の変の直後も、密偵がこの道を使って備中高松の秀吉に「信長死す」の一報を届けたのではないか、と分析している。そして、事前にこのようなルートを確保していたことこそ、秀吉があらかじめ光秀の謀叛に備えていた証しというのである。
ただし、これには反論もある。歴史家の渡邊大門氏は『夜久文書』の秀長書状が年未詳、つまり書かれた年がわからない点を取り上げ、必ずしも本能寺の変直後の書状とはいえないと指摘した。秀長が何らかの目的を持って京から姫路への迂回ルートを確保していたことはあっても、それが本能寺の際に活用されたとは断言できないと考えられる。
3人の武将の役割
中国大返しを成功させた立役者として、小林明氏は3人の武将を挙げる。まず、秀吉が味方に取り入れた2人の武将が重要だ。一人目は、毛利氏との和睦交渉をまとめた安国寺恵瓊。彼は秀吉の迅速な撤退を可能にするため、毛利方との和平を成立させた。二人目は、秀吉の弟・羽柴秀長。彼は後方支援と兵站の維持に尽力し、大軍の移動を支えた。
三人目の立役者は、黒田官兵衛(孝高)である。官兵衛は秀吉の軍師として、山崎の戦いの戦略立案や情報収集で活躍した。彼の機略が、秀吉軍の迅速な行動を可能にしたとされる。
人望と勢いの差
秀吉が光秀と異なり、多くの武将から支持された背景には、人望の差があった。光秀は有力武将にことごとく協力を断られたのに対し、秀吉は丹羽長秀や池田恒興らを味方につけることに成功した。小林氏は「秀吉を敵に回せない理由があった」と指摘する。秀吉の巧みな人心掌握と、事前の根回しが功を奏したのである。
また、令和に入ってからは、山崎の戦いにおける「秀吉遅参説」も登場している。これは、秀吉の到着が従来言われていたよりも遅かったとする説で、行軍速度の神話を相対化するものだ。しかし、いずれにせよ、明暗を分けたのは「勢い」の差だった。光秀は信長弑逆の汚名を着せられ、味方を得られなかったのに対し、秀吉は「信長の仇討ち」という大義名分を掲げ、多くの支持を集めた。
中国大返しは、単なる行軍の速さではなく、事前の情報網、巧みな外交、そして人望によって成功した。光秀が有力武将に断られたのとは対照的に、秀吉は3人の武将の協力を得て、歴史を動かしたのである。



